アストラウル戦記

 気を抜いたら落馬しそうで、ルイカは馬の首に体を伏せるようにして手綱を握りしめた。快楽と放蕩の限りを尽くしたオルスナ二世は、かつて何百人といた愛妾たちにしていたことを今はルイカ一人に背負わせていた。月に一度、離宮を訪れた後、いつもルイカの体はきしんで悲鳴を上げていた。
 禁欲的な生活を送っているなどと、嘘偽りばかり。
 町が近づくと、ルイカはスピードを落として馬を歩かせた。元々、貴族相手の高級男娼をしていたルイカが元国王の目に留ったのも、ルイカが元国王に従順に振舞い、どんな過酷な行為も受け入れたためだった。
 そうしなければならない理由が、この町にあった。
 石造りの家が並ぶ下町の通りは、貧しいけれど清潔だった。そこは、かつてソフ教と対立し、最後まで宗教の統一に反発したラバス教の信者たちが多く住んでいた。表面上はソフ教へと改宗したが、今でも隠れてラバス教を信仰する者は多かった。
 ルイカが馬をゆっくりと歩かせながら町に入ると、町の住人たちはルイカをまるで胡散臭いものを見るような目つきでねめつけた。それにも構わず、ルイカはある一軒の古い家の前で馬を降りた。
「ホックズ、ミゼルの様子は?」
「変わりない。それよりもお前の方が俺は心配だよ。来い。手当してやろう」
 小さな白い家から出てきたがっしりとした体躯の男が、ルイカの手首をつかんだ。そこは真っ赤に腫れ上がり、くっきりと縄目の跡がついていた。平気さ。そう答えて笑うルイカの体を軽々と抱えると、ホックズは家の中へ入った。
 その様子を見ていた町の住民たちも、また思い出したように動き出す。全く、ルイカに世話になっていながら、薄情な奴ばかりだ。呆れたように呟くホックズに、ルイカはいいんだと答えた。
「みんなが無事ならそれでいいさ」
 家の中は薄暗かった。ホックズがいつも治療に使う道具の入った箱を開けると、ルイカは慣れたようにためらいなく服を脱いだ。華奢な背中には無数の火傷や傷の跡が、新しいものも古いものも混在していた。何度見ても慣れない。眉を潜めるホックズに、ルイカは言った。
「体を拭いてくれないか」
「そうだな。水を汲んでくる」
 そう答えて、ホックズは裏口から外へ出ていった。痩せた体をさらしたまま、ルイカは隣の部屋へと繋がるドアをそっと開いた。そこは華美な装飾もなく明るく清潔で、ホッとしてルイカは窓際に置かれたベッドに近づいた。
 そこには、中年の男性が静かに眠っていた。
 ミゼル。心のうちで呟いて、ルイカはその傷だらけの顔を覗き込んだ。目を覚ますことのないミゼル。けれど、やっぱり諦めきれない。
 表情をなくしたままミゼルを眺めるルイカを呼ぶ声が、隣から響いた。ルイカが戻ると、ホックズは桶に入れた水に布をひたして絞りながらルイカを見た。
「アストラウルで、ミゼルと同じ症状の病人が目を覚ましたという話があるそうだ」
「本当に?」
「商人たちの噂だから本当かどうかは分からないが、ほんのわずかしか取れない薬草を使い、直接、血の中へ煎じたものを入れるそうだ。その器具も必要だし、一度ではなく長い間、何度もやらなきゃいけない」
「いいよ。調べてみてくれ。いつもの薬も届けてくれるそうだ。この町が国王に目をつけられないように、軍にも金をばらまいている。大丈夫だ」
「そうか…ルイカ、無理するなよ」
 そう言って、ホックズは濡らした布でルイカの体を丁寧に拭った。その仕草は患者にする時のそれと同じように機械的で、ルイカは苦笑して振り向いた。
「王があんなによがって泣くほどの体なのに、ホックズは何とも思わないんだな」
「バカ言うな。お前の体なんか生まれた時から飽きるほど見てるんだぞ。今さら何を思えって言うんだ」
「それは子供の時の話だろう? なあ、俺、ホックズならいいよ。国王級の贅沢な気分にさせてやるよ」
 ルイカが言うと、ホックズはふいに黙り込んだ。ホックズ? ルイカが呼ぶと、ホックズは低い声で、バカ言うなともう一度答えた。
「…ありがとう」
 目を細めてルイカが囁くと、ホックズは布を桶に放り込んでルイカの手を取った。そこについた新しい傷を消毒するホックズに、ルイカは少し罰が悪そうに呟いた。
「だって、ミゼルが世話になってるから」
「ミゼルの世話をするのは当然だ。俺の親父の弟なんだから」
「その親父だって、もういないだろ」
「死んだものは仕方がない…いつも神の御心のままにと言っていた人だ。異教弾圧で焼かれたとは言え、無理に改宗させられて生き続ける苦しみも知らないまま神の御元へ行けて本望だろう」
「ミゼルもそう思っていると思うか」
 ルイカが尋ねると、ホックズは言葉を詰まらせた。
 ホックズから手を取り返すと、ルイカは開いていたドアから隣の部屋へ駆け込んだ。裸のまま、まるで子供のようにミゼルの眠るベッドに飛び込んで、その傷だらけの顔に何度もキスを重ねた。大きかったミゼルの体はやせ細り、顎には髭が伸びていたけれど、そこにも唇を押しつけ、ルイカは泣き出しそうな表情でミゼルの顔を眺めた。
 ミゼル、どうして目を覚ましてくれないんだ。
 こんなに愛しているのに。
 かつて何度もルイカの頭をなでてくれた大きな手は、小さく萎んでしまったかのように見えた。それでもミゼルの顔は昔のまま穏やかで、ルイカはミゼルの体の上に顔を伏せた。

(c)渡辺キリ