アストラウル戦記

 町は人々の寝息すら聞こえそうなほど静まり返っている。
 その日は闇夜で、影も映らないほど真っ暗だった。衣擦れの音だけが、石畳の上で密やかに響いた。そのほんのわずかな気配に気づいて、ホックズが闇の中で目を開いた。
 ぐっすりと眠っているルイカの肩をそっと揺すると、その耳元に来たと短く呟いた。ベッドから降りて静かに隣の部屋のドアを開けると、その戸口に置いてあった木の棒をつかんだ。異変に気づいてルイカも同じように棒を取ると同時に、入り口のドアがバンと大きな音を立てて開き、数人の男たちが中へ踏み込んできた。
「お前たち、ここがオルスナ二世の小姓を勤めるものの家と知っての狼藉か!」
 隣室のドアを守るように立ちふさがって、ルイカが張りのある声で怒鳴った。
 怯むように思われた男たちは、ルイカの言葉にも構わずミゼルがいるはずだと言って剣を構えた。その隙に、ルイカが手に持っていた棒で先頭にいた男のみぞおちをついた。それは一瞬の早業で、グッという低い声をもらした男の頭を返す棒の先で殴り、ルイカは闇に慣れた目で男たちを睨みすえた。
「ルイカ=ゼマーンの家だということは知っている!」
 一番戸口側にいた上官らしき男が、近所中に響き渡るような大声で怒鳴り返した。誰だ。ルイカが鋭く尋ねると、男はそばにいた部下に何か囁いて、部下が出ていくのを見届けてからルイカに向かって答えた。
「答える必要はない」
 ルイカはギュッと棒を握る手に力を込めた。
 なぜ。あの離宮にたむろする、堕落した貴族たちの誰かが密告したのか。
 早く逃げるんだ。時間を稼いでいる間に。部屋の中の気配を伺って、ルイカは唇を噛み締めた。もし国王軍に踏み込まれた時は、ルイカが時間を稼ぎ、その間にホックズがミゼルを背負って裏口から逃げ出すよう決めていた。ルイカが更にオルスナ二世の名を出そうと口を開いた瞬間、裏口の方からギャアと叫ぶ声が大きく響いた。
「ホックズ!?」
 ルイカがドアを開け裏口へ駆け寄ると、そこにはホックズとミゼルが倒れ込んでいた。ホックズ、ホックズ! 青ざめてルイカがホックズの肩を揺すると、痛みに顔をしかめたホックズがルイカの手を弱々しく握りしめた。
「裏にも…こいつら国王軍だ。逃げ…」
「あ…」
 ルイカが顔を上げた瞬間、ミゼルの人形のような体を持ち上げる兵士の姿が見えた。ホックズの手はすでに温かい血で濡れていた。ラバス教の町だ。家ごと焼き払え。上官の命に、部下たちが頷いた。やめろ! ルイカの悲壮な声が響いた。
「うあっ!」
 ボグッという音と共に、ミゼルを抱え上げようとしていた兵士が倒れた。堅い棒が真半分で砕け折れた。翡翠色の目を見開いたルイカが返し手で隣の兵士の肩を殴ると、棒はルイカの手を離れクルクルと円を描いて石畳の上に落ちた。
 許さない。
 すでに石畳の上で動かなくなったホックズを横目で見ると、ルイカは猛々しい怒りに包まれて男たちを睨みすえた。手当をすれば、まだ間に合うかもしれない。考えながらじりじりと進んでホックズの持っていた棒を取り上げると、ルイカは静かに長く息を吐き出した。
「仕方がない、切れ! ここで逃がす訳にはいかん!」
 すでに屈強な兵士が三人も倒れており、焦ったように上官の男が叫んだ。ルイカを取り囲む男たちが剣を構えた。遊び半分でミゼルから習った棒術など、本物の軍人相手に何の役に立つというのだろう。考えた瞬間、棒が剣に払われてルイカは目の前の男に体当たりした。
 ふいに町の一角から火の手が上がり、ルイカが気を乱してそちらを見た。本当に全て焼き払う気だ、この町を…なぜ今頃。その瞬間、熱を感じてルイカは目を見開いた。
 背後に回った兵士が、剣を振り下ろしていた。
「殺せ! ミゼルの息子だ!」
 誰かが憎しみを込めて叫んでいる。
「なぜ…オルスナ二世は…」
 呟いて、ルイカは倒れた。老王は霊廟で眠っておられる。今夕のことだ。上官の男が哀れむように呟いた。ルイカの目尻から涙がスッと一筋流れた。
「ミゼル=ゼマーンを家の中へ運び入れろ。ミゼルの息子もだ!」
 遠い所で声が聞こえる。
「火をかけろ! ミゼルが牢から逃れ、生きていたことが国内外に知られてはまずい!」
 体を持ち上げられ、すでに致命傷となっているのか抵抗することもできずに、ルイカは数人の男によって家の中へ運び込まれた。やせ細ったミゼルの体が乱暴に床に転がされ、隣にホックズの体も放り出された。父親と共に死ねれば本望だろう。誰かの声が響いて、自分自身も同じように家の冷たい石の床の上に横たわらせられた。
 許さない。
 国王、オルスナ三世。
 ミゼルを、ホックズを、町のみんなを、そして俺を殺した。
 許さない。俺たちが何をした。信じるものを守っただけだ。
 お前が俺や俺の愛するものを殺したように、俺もお前の愛するものを殺す。
「火を放て!」
 声と同時に、熱風が体を包んだ。
 炎の中で、ルイカの顔はどこか微笑んでいるように見えた。

 

 物語は、それから約四十年後のアストラウル王立小国から始まる。

(c)渡辺キリ