アストラウル戦記

   1

 長い歴史を持つアストラウル王宮の美しい建物に入ると、ソフ教様式の高い天井と荘厳な大理石の床が人々を迎える。
 コツンコツンと響く靴音と共に大広間や多くのサロン、両脇を彫刻や絵画に見守られる長廊下を抜けると、いつの間にか庭へ出て、王宮のミニチュアのような離宮が姿を現す。
「ちょ…ちょっと待って! 待て、ユリアネ!」
 カンと固く気持ちのいい音がして、息切れと共に声がかすれた。
 柔らかな芝の地面に尻餅をついて、エウリルが慌てて言った。オルスナ特有の棒術の型で構えて、ユリアネは笑った。二人とも額から汗が流れ出て、シャツが体に貼り付いていた。鳥が空高く飛んでピイと鳴いて、ゆっくり後転をして起き上がると、落ちた棒を拾い上げてエウリルは苦笑した。
「ユリアネは僕相手でも手を抜かないから、困るよ」
「ただでさえオルスナは非武装国家などと言われて、精鋭軍隊をいくつも持つアストラウルからバカにされているのに、エウリルさままでひ弱にお育ちになられれば、やはりオルスナの血を引いているからと言われます」
「そんな人はここにはいないよ。ねえ、お母さま」
 振り向いて、エウリルは他の侍女たちと編み物をしていた母エンナに声をかけた。離宮の中庭の真ん中に置かれた小さなベンチと、雨避けのルーフのついた休憩所はエンナの希望で作らせたものだった。エンナはエウリルにそっくりな色白の肌で、柔らかそうな栗色の髪は胸の辺りまでゆるやかにカーブを描いていた。
「そうね。でも、ユリアネがあなたのために裂いてくれる時間には感謝しなければいけないわ、エウリル」
 かぎ針から目を離して、エンナが微笑みながら柔らかな声で答えた。
 はいはい。ため息まじりにそう答えると、エンナの後ろに侍従や大臣の姿が見えて、エウリルはパッと顔を輝かせた。
「お父さま!」
 大臣の後ろで、杖をついてゆったりと歩いてきたアストラウル王、ルヴァンヌがエウリルの声に気づいた。
「二人ともここにいたのか。ユリアネにまた棒術の稽古をつけてもらっていたのだな、エウリル」
 前を守るように歩いていた大臣たちが道を開けると、ルヴァンヌがしっかりとした足取りでエウリルに近づいた。エウリルが棒を置いて駆け寄ると、その後ろからエンナも長いスカートの裾をつまんでゆっくりと歩み寄ってきた。
「お忙しい中、お立ち寄り下さって本当に嬉しいですわ」
「ありがとう、私もお前たちの顔を見るのが何よりも楽しみだよ。老いた身にこれほどの喜びを与えられようとは」
 そう言って、ルヴァンヌはエンナを柔らかく抱きしめた。すぐに離してエウリルの小柄な体も軽く抱くと、頬にキスをしてから笑った。
「汗をかいているな。随分長い間、ユリアネにしごかれたのだろう」
「あ、ごめんなさい」
 赤くなってエウリルが額の汗を手首で拭うと、そばにいたユリアネが苦笑しながらエウリルに布を差し出した。
「お言葉ですけど、エウリルさまにはまだ本気でお相手したことはありませんのよ」
「本当に?」
 驚いてエウリルが目を見開くと、ユリアネやエンナが声を合わせて笑った。オルスナの女は恐いな。そう言って笑いながら、ルヴァンヌはエウリルの肩を叩いた。
「近衛大尉からも剣術を習っているそうだな。将来のためにも、ここにいる間に多くのことを学んでおくれ」
「はい、お父さま。ありがとうございます」
「もうすぐご婚礼の儀式がありますな、王子。おめでとうございます。立派なアストラウルの王子として神の御前に立たれることをお祈り申し上げておりますよ」
 王の言葉で思い出したのか、大臣が目を細めてエウリルに言葉を捧げた。続いて他の侍従たちもおめでとうございますと声を合わせた。ありがとう。エウリルが答えると、ルヴァンヌはエンナの肩を抱いて離宮を指差した。
「さあ、中へ入ってお茶にしよう。外の日差しは少し強いのでな」
「ええ。エウリル、あなたも一緒に」
「はい」
 素直に頷くと、エウリルは駆け出して地面に置いた自分用の装飾のついた長い棒を拾い上げた。その時、ルヴァンヌたちが来た王宮の方からエウリルを呼ぶ高い声が響いて、エウリルは笑みを浮かべて駆け込んできた少女の名を呼んだ。
「ハティ!? 来ていたの」
「エウリル! 会いたかったわ! あなたったら手紙も書いてくれないんだもの」
 ドレスやコルセットも身につけず、ユリアネのように短いスカートの下にゆったりとしたパンツスタイルで駆けてきた少女は、エウリルの首筋に抱きついて言った。慌ててハティを抱きとめると、満面の笑みをたたえてエウリルは答えた。
「どうせ、すぐに会えるんだから」
「私は毎日でも会いたいわ」
 そう言ってエウリルから手を離すと、ハティは二人を微笑ましく見ていたルヴァンヌとエンナに向き直って優雅にお辞儀をした。
「義父上、義母上、お会いできて光栄です。父が今度、義父上の元へご挨拶に伺いたいと」
「ハティ、いらっしゃい。また駆けてきたね。侍女たちが間に合わないだろう」
 おかしそうに笑って、ルヴァンヌが長いスカートの裾をつまんで追いかけてきたハティの侍女たちを見た。だって、エウリルに早く会いたかったんですもの。いたずらっぽく笑って、ハティはルヴァンヌの首筋に腕を回して軽く抱きしめた。
 頬にキスを交わして、それからエンナにも挨拶をする。
「ハティ、お前が私の娘となる日を心待ちにしているよ」
 ルヴァンヌが言うと、ハティは私も王をお父さまと呼べる日を楽しみにしておりますわと答えた。ハティ、行こう。追いかけてきた口うるさい侍女たちを見ると、ハティの手をつかんでエウリルは言った。
「お父さま、お茶は後でいいでしょう? 少しハティと話してから行きますから」
「仕方がない、行っておいで。でも、あまり待たせないでおくれ」
 ルヴァンヌが答えると、エウリルはハティの手を引いて駆け出した。裏庭へ行こう。そう言って笑うと、エウリルはハティと共に木の間を通り抜けて離宮の裏へ回った。

(c)渡辺キリ