アストラウル戦記

 パーティーが終わると、エンナはいつもの離宮ではなく準備された王宮の一室へ入った。参列できなかった侍女たちからエウリルの婚儀の様子を次々と尋ねられ、エンナは衣装を脱ぐ間もなく一人息子の晴れ姿を話して聞かせた。
「本当に立派なお式だったこと」
 穏やかな気性のままにおっとりと言って、エンナは侍女からようやくきつく締めたコルセットを外されて息をついた。化粧を落とし、ゆったりとしたナイトドレスに着替えて長い髪を梳かしてもらうと、ようやく人心地ついてエンナは微笑んだ。
「エンナさま、私たちも本当にエウリルさまのお姿を拝見したかったんですのよ。ご立派な花婿だったそうじゃありませんの」
 ベッドに入ったエンナのためにカップにホットチョコレートを注いで、侍女がにこやかに言った。みんながよくやってくれたから、無事にエウリルの婚儀を終えることができたわ。エンナが答えると、侍女たちは視線を合わせてはにかんだように微笑んだ。
「みんな、本当にありがとう。まだしばらくは落ち着かない日々が続くと思うけれど、もう少しだけ力を貸してちょうだい」
 エンナの言葉に、侍女たちが仰せのままにと答えた。ベッドサイドのキャンドルをいくつか残して明かりを消すと、侍女たちがエンナに挨拶をして部屋を出ていった。
「ルヴァンヌさまも、今夜はこちらへおいでになられればよろしいのに」
 いつもエンナの身の回りの世話をしているお気に入りの侍女が、燭台を持って優雅にキャンドルを吹き消し、それから振り向いてエンナを見た。静かに笑みを浮かべると、王はお疲れなのでしょうと言ってエンナは目を伏せた。
 最後の一人が出ていくと、離宮とは違うどこか張りつめた空気にエンナは小さく息をついた。
 オルスナの王女エンナは、本来なら第二王妃として王宮で王を助け、オルスナとの絆を結ばなければならない立場にあった。
 しかし、歴史の長いアストラウル王宮の厳格なしきたりや口さがない貴族たちの噂に囲まれ、いつしかエンナは体調を崩すようになり、公式な儀式の時以外は王から与えられた離宮でエウリルと共に時を過ごしていた。王宮で内政を助ける第一王妃サニーラとは、立場も役割も正反対と言ってよかった。
 エウリルも今日からはサウロン公の元で立派に成長してくれるでしょう…私の役目が一つ終わったのだわ。
 大きな枕に身を預け、エンナは目を閉じた。王子を生むまでは、自分だけがオルスナとアストラウルを結んでいるという重荷と、外国の王宮で一人頼るものもなく暮らす孤独に常に苛まれていた。
 これからはエウリルに流れる二つの血が、オルスナとアストラウルを繋ぐ役割を自然と担ってくれる。ぼんやりと考えると、エンナはゆっくりと目を開いた。どこからかふわりと風が入ってきたような気がした。ドアが開いているのかしら。考えて視線を上げ、エンナは息を飲んだ。
 そこには男が立っていた。髪が艶やかで美しく、大きな目は宝石が輝くように潤んでいた。エンナが侍女を呼ぼうと口を開くと、若い男は長い人さし指をエンナのふっくらとした唇に当てた。
「エンナ、俺を覚えてるね?」
 それはアストラウル語ではなく、流暢なオルスナ語だった。驚きのあまり、目を見開いたままエンナは男を見上げた。顔には見覚えはない、だがその人間離れした美しさを知っている。
「…ルイカ?」
 エンナが呆然と呟くと、男は頷いた。
 ベッドの端に座ると、男はエンナのゆるやかな巻き毛に触れた。そんなはずがないわ。視線を揺らして男をジッと見つめると、エンナは首を横に振った。
「だって、あなたは…二十年以上も前に、オルスナ王宮で父に捕らえられて死んだのよ」
「エンナ、君は何も知らないお嬢ちゃんだったよね。本当に可愛かった。オルスナの王宮の隅々まで我が庭のように楽しそうに駆け回っていた。今も綺麗だけれど、あの頃はこの俺の憎しみすら溶かす太陽のような輝きを持っていた。もしあのまま君がそばにいてくれるなら、俺はあいつを許してもいいと思えたかもしれない…」
 エンナのほっそりとした手を取ると、男はそこに柔らかく口づけた。本当に。考えた瞬間、指先が震えた。口元を押さえて目の前の男を見つめ、エンナは身の奥底から震えながら目を閉じた。
「本当だったの? 本当に、あなたはルイカだったの? 私はあの時まだ子供で、あなたが誰か知らなかった。でも今なら分かるわ…あなたは今でも父を憎み続けているの?」
 冷たくなったエンナの手を取り、ルイカは優しげに目を細めた。
「オルスナ王族の血を、最後の一滴まで俺自身の手で消し去りたいと思うほどに」
 低い声は、絶望に満ちていた。
「…エウリルだけは、お願い」
 ルイカの手をつかんで握りしめると、エンナは身を乗り出した。
「エウリルだけは、許して。あの子は何も知らない。あなたを助けられなかったことは、私の責任です。憎しみは私を殺すことでもうおしまいにして。お願い」
「オルスナ三世はエウリル王子を可愛がっているそうだね。ここへ来て、色々なことを聞いたんだ。エンナ、君が幸せそうでよかった」
「ルイカ!」
 エンナの目から涙が一筋流れた。
 ルイカの持つナイフの柄には、きらめく宝石の欠片がたくさん埋め込まれていた。一瞬、幼い日にルイカと出会ったオルスナ王宮の庭が目の前に広がったような気がした。あの時もルイカは突然現れ、微笑んだ。今夜、エンナの前に現れたように。
 君が、オルスナ三世が可愛がっているという末の王女だね、と、耳元で囁いたあの時のように。
「…許して」
 絞り出すような声が響いた。ルイカの手の装飾ナイフがひらりと舞って、真っ白なベッドの上に深紅の花が一つ二つと落ちて流れた。ルイカの目は乾いていた。二度と迷わないと、ナイフの軌道が囁いていた。
「エンナ、もう一度君に会えて、嬉しかった」
 血のついた手で目を閉じたエンナの頬に触れると、ルイカは愛おしさと憎しみの入り交じる激情のままにエンナの髪を切り取った。汚れた手をエンナのナイトドレスの裾で拭うと、ナイフとエンナの髪を持ってルイカはそっと部屋を出ていった。

(c)渡辺キリ