夜が軽やかに更けていく。
今日最後の儀式が自室の隣の間で行われると、エウリルがそれまで着ていた衣装を男性の召し使いたちが取り去っていった。下着姿になって、エウリルは緊張した面持ちでお辞儀をしながら下がっていく召し使いたちにありがとうと声をかけた。ハティさまがお待ちでございますよ。静かな部屋に女官長の声が響いて、エウリルは緊張のあまり白い顔色のまま隣室に入った。
中は薄暗くて、もう少し明かりをと頼んだエウリルに、女官長は含み笑いを唇に浮かべて部屋を出ていった。首筋まで真っ赤になると、ドキドキする心臓を押さえてエウリルは部屋に目を凝らした。さっきから少し嫌な匂いがしていた。何の匂いだろう。考えながらベッドに近づいて、エウリルは口を開いた。
「ハティ…?」
エウリルの声は掠れていた。自分が使っていたベッドは取り払われ、今日のために新調されていた。そこにいるのかと近づいて、エウリルは何かにつまずいてベッドに手をついた。何か重い物が床に落ちていた。
「…あ」
目を見開いて、それからすうっと血の気が引く。
足下を見ると、そこには白い総レースのキャミソールを身につけたハティが倒れていた。首から胸元にかけて、まるでそんな色の下着を身に着けているかのように真っ赤に染まっていて、エウリルは嫌な匂いの元となっているものに思い当たって思わず口元を押さえた。これは、血だ。血の匂いだ。
ガクガクと膝が震えた。何が起こっているのか理解できず、エウリルはその場に膝をついてハティの足に触れた。それはもう死後硬直が始まっていて固く、温もりも感じられなかった。抱きしめれば柔らかく、温かかったハティの体。呼べば振り向いて笑顔を見せてくれたハティの美しい顔。
「お気に召しましたか、王子さま」
ふいにすぐ後ろで、艶のある低い声が響いた。
エウリルが真っ青な顔で振り返ると、そこにはフリレーテが立っていた。現実なのか夢なのかも分からず、エウリルは立ち上がってぼんやりとフリレーテを見上げた。誰だ。震える声で尋ねるエウリルの頬に血まみれの手で触れると、首を傾げてフリレーテは笑った。
「知らなくて当然だよね。でも、俺はお前をよく知っているよ」
「何…」
「お前のことも、エンナのことも。お前が生まれた日のこともよく覚えているよ、エウリル」
頬から首筋、そして胸にかけて手を滑らせ、フリレーテはもう片方の手に持っていたナイフをそっとエウリルの手に握らせた。その手は硬直したまま震えていて、フリレーテはギュッとエウリルの手の上からナイフを握りしめて手を離した。
「あ…、あ! ハティ!」
その体温に我に返って、エウリルはナイフを握ったままハティのそばにひざまずいた。肩を揺すると、ハティの柔らかな髪が揺れて頬に降り掛かった。その顔はすでに色を失っていて、半狂乱になって何度も呼びかけるエウリルの視線の先に、フリレーテが手を差し出した。
そこには、何度も抱きしめ匂いをかいだ懐かしい髪が握られていた。
「…お母さま」
その髪は美しく、血に汚れていてもどこか気高く艶やかに光っていた。どうして、なぜこんなことに。何が起こっているんだ。これは夢か。次々と言葉が浮かんで、ふいにぽっかりと大きな闇がエウリルの心に襲いかかってきた。
こんなものは現実なんかじゃない。
「エンナは俺が誰だか知っていたよ。エウリルだけは助けて、だって。見上げた母親根性だよね。涙が出そうになったよ」
エウリルの後ろにしゃがみ込むと、その肩を後ろから抱いてフリレーテはその耳元に囁いた。目を見開いたまま答えないエウリルは呆然として、まるで人形のように力なく、その横顔を覗き込むように見てフリレーテはまるで愛おしい恋人にするようにエウリルの耳に舌で触れた。
もっと、苦しむがいい。
もっと絶望に喘ぐがいい。
お前の中に流れる血が苦しめば苦しむほど、俺の中の憎しみが開放されていく。
「エウリル、だからお前を助けてあげる」
初めは殺そうと思っていたけれど、命だけは助けてあげる。
ここで俺が殺さずとも、お前にはもう道は残されていないのだから。
呆然とハティの死相を見つめるエウリルの手を取ると、フリレーテは目を伏せて口元に笑みを浮かべた。
「死んだ方がマシだという目に合わせてあげる。逃げられないよ。死にたければいつでも死ぬがいい」
そう言って、フリレーテはエウリルから名残惜しげに手を離して立ち上がった。さよなら、王子。部屋の重いドアを開けると、そこで警備をしていた衛兵の前を堂々と通り過ぎてフリレーテはゆっくりと歩み去った。
衛兵にはフリレーテの姿は見えていないようだった。
「…あ、…なぜ」
言葉が無意識に唇からもれた。一人残されたエウリルの手には、血まみれのナイフが握られていた。静けさに押しつぶされるように、ふいに固く閉まったドアの中から絶叫が響き渡った。それから衛兵がエウリルの元にたどり着くまでには、それほど時を要さなかった。
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