アストラウル戦記

 エウリルの婚儀を一週間後に控え、アストラウル王宮は慌ただしい時を迎えていた。
 オルスナとアストラウルの国交のために嫁いできた王妃の元に生まれた王子が、アストラウルで結婚することになり、オルスナからも祝いの品々が多く寄せられていた。人の出入りは激しくなり、婚儀に出席するために王宮を訪れていた王の次男、ローレンはその様子を見ながら目を細めた。
「私の婚儀の時よりも、盛大だな。エウリルはオルスナ国王からも可愛がられているから」
「まだ二度しか会ったこともない祖父王から可愛がられているなんて、本当かどうか分かったもんじゃない」
 同じように大きな窓から外の様子を見ていたフィルベントが、ローレンを軽くにらむように見て答えた。エウリルはオルスナへはよく手紙を書いているようだけど。苦笑してローレンが言うと、フィルベントはそれには答えず部屋を出ていった。
 面白くない。
 あのオルスナとのミックスが自分の弟だと呼ばれることも、自分よりも先にサウロン公の娘と結婚することも。
 いつも機嫌よく笑っているエウリルの顔を思い出すと、眉を寄せてフィルベントは長い廊下を歩いた。気晴らしに馬で遠出でもするか。息をついて顔を上げると、前から小姓や侍従と共に話しながら歩いてくるアントニア王太子の姿が見えた。脇に控えてフィルベントが頭を下げると、アントニアがフィルベントに気づいてにこやかに近づいた。
「やあ、フィルベント。何か気に入らないことでもあったのかい? 美しい顔が台無しだ」
 ムスッとした表情のフィルベントにアントニアが尋ねると、別に…と答えてからフィルベントはアントニアを見上げた。
「お兄さま、エウリルの婚儀はご出席されるのですか?」
「当然だろう。サウロン公はお父さまの従兄に当たられる方だ。今でも軍には力を持っているし、エウリルのことも気に入っているようだから。お前も欠席してはいけないよ、フィルベント」
「分かってます…」
「ローレンには真面目に畏まっているよう伝えておかなければな。あのいたずら者はどこにいるか知ってるかい」
「さっきサロンで一緒に」
「そう。フィルベントも気が向いたらおいで」
「ありがとうございます」
 フィルベントがようやくわずかに笑みを見せると、アントニアはフィルベントの整った顔を軽くなでた。その時、ふいに廊下の向こうの吹き抜けでざわついた声がして、何だろうと二人は顔を上げた。
「父王さまの遠縁に当たられる、アリアドネラ伯爵さまがご到着に」
 アントニアに言い付けられて様子を見にいった小姓の一人が、戻ってきて告げた。アリアドネラ伯爵といえば、普段はプティ市に住んでおられるとか。アントニアの一番そばにいた一際美貌の目立つ小姓が言葉を続けると、アントニアはおっとりとした口調で答えた。
「アリアドネラ伯爵だけでは、あんな騒ぎにはなるまい。行ってみよう。一世一代の美女でも連れているのかもしれないぞ」
「まさか。アリアドネラ伯爵と言えば、もう御年八十歳を越えるご老齢の方ではありませんか」
 フィルベントが答えながらも後に続くと、アントニアが吹き抜けから大広間を覗き込んで目を見開いた。その後ろから顔を覗かせたフィルベントが、思わず息を飲む。
 老齢のアリアドネラ伯爵を支えるように、一人の美しい青年が立っていた。艶やかな髪に縁取られた顔は恐ろしいほど美しく、ふっくらとした唇には常に笑みが讃えられていた。ステラ。アントニアがそばにいた小姓の名を呼ぶと、ステラと呼ばれた小姓は黙ったまま頭を下げ、急いでその場を離れた。
 あの青年について調べにいったのか。チラリと横目でステラを見ると、フィルベントはアリアドネラ伯爵のそばにいる青年に目を凝らした。見たことのない風貌の青年は、アストラウル人とも、同国にいる別人種であるスーバルン人とも違って見えた。
 アリアドネラ伯爵の小姓だろうか。大広間から王宮の侍従たちに案内されて進むアリアドネラと青年の気配は、そこから消えた後も余韻を残していた。あのようにしょぼくれ、ヨボヨボになってからも小姓を抱えるとは。鼻の先に皺を寄せて、何か無気味なものを見たかのようにフィルベントが顔をしかめると、しばらくしてステラが戻ってきてそこに膝をついた。
「アリアドネラ伯爵の一人息子、フリレーテさまでございます」
「息子? 妾子か? アリアドネラ伯爵には子供はいなかったはず」
 驚いてアントニアが尋ねると、ステラは答えた。
「優秀な成績でナレオトル大学院をご卒業され、その後、アリアドネラ伯爵の養子に迎えられたそうでございます」
「ナレオトル院卒か。それはそれは、優秀な頭脳をお持ちなのだな」
 それなら伯爵の養子となっても不思議ではあるまい。そう言ってアントニアは歩き出した。お兄さま、私はここで失礼いたします。どこか血の気の引いたような青い顔で、フィルベントが言った。一緒においで。振り向いたアントニアにニコリと笑みを返すと、一礼してフィルベントは歩き出した。
 フリレーテ。
 なぜ、あの微笑みが頭から消えないんだ。
 養子など、どこの下賤の血を持つ輩かもしれないのに。
 大広間へ続く階段を下りると、フィルベントは第三王子に挨拶をとお辞儀する貴族たちを無視するように真っすぐに歩いてアリアドネラ伯爵を追いかけた。バカな、会った所で何を言うつもりだ。血の気の引いたままの顔で唇を引き結ぶと、二人を見失ってフィルベントはそのまま広大な庭へ出た。
 外はいい天気で、さっき見かけたフリレーテの妖艶な美貌が夢のように思えた。
 何一つ。
 高位でありながら何一つ手に入らない自分。
 あのエウリルですら、思う女との結婚も決まっているというのに。
 祝福の言葉に幸せそうに笑みを返すエウリルを思い出すと、胸に黒い靄のようなものを感じてフィルベントは整えられた庭の中へ駆け込んだ。ごきげんよう。エウリルの婚儀に出席するために集まった貴族が、フィルベントに気づいて声をかけた。黙ったまま頷いて、フィルベントは人のいない方へと歩き出した。
 アントニアには王の座が。
 ローレンとルクレーヌには、幸せな家庭が。
 そして、エウリルにはハティという恋人が。
「何をそんなに嘆いておいでなのです。王子ともあろうお方が」
 ふいに鈴を転がすような気持ちのよい声が響いた。
 驚いてフィルベントが振り向くと、そこにはあのアリアドネラ伯爵と一緒にいた青年が立っていた。細い手足も切れ長の目も、さっき大広間で見たものと同じだった。
「なぜ」
 緊張でかすれた声でフィルベントが尋ねると、フリレーテはニコリと親しげに笑ってフィルベントに近づいた。
「逃げてきたのです。王宮へついてきてくれと伯爵が泣いて頼むものだから、一緒に来たけれど、私は王宮のような堅苦しい所は苦手なのです」
 下賤の出だからか。黙ったままフィルベントがその美しい顔から視線を外せずにいると、フリレーテはニッと笑ってフィルベントの手を取った。
「そう。私の血は穢れている。あの老獪な伯爵に夜毎抱かれ、身も心も汚れきっているのです」
「触るな」
 フィルベントが鋭く言って手を取りかえそうとすると、フリレーテはつかむ手に力を込めて答えた。
「あなたの、この美しく白い手に全てを与えることもできますよ。私なら」
「何を…私は何も望んではいない」
「あなたの高潔な魂に釣り合うだけのものを、あなたに差し上げましょう。全てをあなたの自由に。フィルベントさま」
 気が向いたら、おいでなさい。そう言って手を離すと、強張った表情のフィルベントを見てフリレーテは柔らかな笑みを返した。魔が通り過ぎたように、辺りは暗く湿っぽく、そして静かだった。遠くなっていくフリレーテの後ろ姿を見ながら、息苦しさを感じてフィルベントは自分の胸元をつかんだ。

(c)渡辺キリ