アストラウル戦記

 アリアドネラ伯爵に与えられた一室は、エウリルの離宮とはまた別の小さな宮殿にあり、地方に住む他の貴族たちも同じようにそこに集まっていた。
 アストラウル宮殿に到着した日の夜、長旅で疲れを隠せず、アリアドネラ伯爵は早々にベッドに入って休んでいた。その傍らには昔の物語を書き記した書物を持ったフリレーテがいて、昨日読んだページに挟んだしおりを取ってゆっくりと本を開いた。
「お父さま、続きを読みましょう」
「いや…今日はよそう。こちらへおいで」
 欲に満ちたアリアドネラ伯爵のしわがれた声に、フリレーテは微笑みで返した。この声を、手を知っている。可愛いものだ、この世に恐ろしいものは他にある。本にまたしおりを挟んで、フリレーテはそれをベッドサイドに置いた。
「お父さま、もうお休みになった方が」
「お前がいないと眠れぬ。さあ、おいで…」
 アリアドネラ伯爵の言葉に、フリレーテは笑みを浮かべたまま頷いた。明かりを絞り、羽織っていた薄いマントの紐を外すと、そのままフリレーテはアリアドネラ伯爵の上に覆いかぶさった。
「お父さま…すぐですから、少し我慢して下さい」
 魅惑的な笑みを浮かべて、その顔を覗き込む。
 アリアドネラ伯爵の老いた顔は、どこか少年のようにキラキラと希望に満ちていた。まるで初恋のように、恐る恐るフリレーテの細い腰を両手でつかんだ。明かりの下で露になったフリレーテの裸体は美しく、傷一つなかった。我慢だなどと。そう囁いて、アリアドネラ伯爵は笑みを浮かべた。その喉元に触れ、ゆっくりと力を込めるフリレーテの長い腕をつかんで、それからふいにアリアドネラ伯爵はビクリと体を震わせた。
「あ…あ」
 小さな声が、喉元からもれる。
 柔らかな笑みを浮かべたままのフリレーテに手を伸ばして、アリアドネラ伯爵は目を見開いた。その顔を覗き込むと、フリレーテは低い声で答えた。
「恨むなら、エウリルとエンナを恨むがいい」
「あ、が…」
 声を出すことも叶わず、アリアドネラ伯爵はわずかに呻いて果てた。苦悶の表情から安らかな表情に変わる瞬間を眺めて、フリレーテが楽しげに声を上げて笑うと、後ろでガタンと椅子が倒れる大きな音が響いた。
「…見たでしょう。これが、私のあなたに対する誠意です」
 振り向くと、恐ろしいほど魅力的な笑みをたたえてフリレーテが声をかけた。そこにはカーテンの影に隠れたフィルベントが、ガタガタと震えて立っていた。死んだのか。やっとの思いでフィルベントが尋ねると、フリレーテは裸体のままベッドを下りて、あなたの目で確認されてはいかがですと答えた。
「しかし…」
 かすれた声で囁くように言うと、フィルベントは恐る恐るベッドに近づいた。その肩を優しく抱くと、展示物でも見るかのようにフリレーテは目を見開いたままのアリアドネラ伯爵の顔を見せた。
「あなただから見せたのです」
「誰かに見つかったら…」
 恐怖に怯えた目で、フィルベントはフリレーテを見上げた。その手はしっかりとフリレーテの手首をつかんでいた。大丈夫です。しっかりとそうフィルベントの耳元に囁いて、フリレーテはベッドの上のマントを素肌の上に羽織った。
「私に注目せよと思えば、人は私に注目した。私を無視しろと思えば無視した。まるで本当にそこにいないかのように。子供の頃からあまりにも当たり前に持っていたから、それが不思議だとは思ってもいなかったのです。この力を誰もが持っている訳ではないと気づいた時、私は…」
 フィルベントの体を横から抱きしめて、フリレーテは長い腕を回した。その耳元で、声はまるで悪魔の誘いのように蠱惑に満ちていた。フリレーテ。息を乱して、それでも目の前にある死体に気を取られてフィルベントがその手を遮ると、フリレーテはフィルベントを抱いたままベッドに横になった。
「嫌だ、ここでは…」
「大丈夫ですよ。もう死んでいますから。噛みつきやしない」
 おかしそうに笑って、フリレーテはフィルベントを組み伏せた。フィルベントの表情は、普段の高慢な態度からは想像できないほど恐怖に怯えていた。私がいいと思うまで、誰も入ってこない。その目を覗き込むと、フリレーテはフィルベントの喉元に吸いつくように触れた。
「あ…っ」
 思わず声を上げると、フィルベントはギュッと目を閉じた。この力が特別なものだと気づいた時、自分が何をすべきかも思い出したのだ。呆然と力の抜けたフィルベントの唇を吸うと、フリレーテはフィルベントの腰の紐をほどいて中に手を潜り込ませた。
「私を…エウリルだと思って、私に身を預けて」
 ふいに言われて、フィルベントは羞恥のあまり目を見開いた。なぜ。かすれた声で問うフィルベントに、笑いながらフリレーテは答えた。
「あなたは口ではエウリルを疎んじていながら、彼の無邪気さや美しさに惹かれて夢では何度もエウリルを犯している。私はそれを知っていて、ここに来たのです」
 フリレーテの言葉はひとつひとつが驚くほど自分に当てはまるような気がした。まるで失っていた心を差し出されたような気さえした。本当なのか嘘なのか、そんな夢を見たことがあるのか、頭が混乱したままフィルベントはふいに荒っぽくフリレーテの腰に抱きついた。
「あああああ!」
 フィルベントの声が、部屋に大きく響いた。
 どうして自分が泣いているのかも分からないまま、フィルベントはむしゃぶりつくようにフリレーテとキスを交わした。欲しいものは何でもあげる。キスの合間にそう囁くと、フリレーテはフィルベントの体を受け止めて笑った。

(c)渡辺キリ