アストラウル戦記

 離宮とは別に王宮にあるエウリルの自室で、いってえという声が響いた。
「痛い痛い! ユリアネ!」
 婚儀で着る衣装合わせが行われていて、フリルのついたスカートや袖の膨らんだ服を身につけた侍女たちが、蝶のように優雅な動きでエウリルのコルセットを締め上げていた。侍女と同じベージュのドレスを着たユリアネが、エウリルの胸に飾るコサージュの形を直していた。
「それぐらいで悲鳴を上げていては、これからハティさまを守って差し上げることも叶いませんわよ」
「それとこれとは話が…」
 ボレロタイプのジャケットにエウリルが袖を通すと、装飾のついた重いドアが開いてその場にいたみなが振り向いた。ローレン。ルイゼン。パッと笑みを浮かべてエウリルが呼ぶと、ローレンと彼に付き従って部屋に入ってきた近衛大尉のルイゼンがニコニコと笑みを返した。柔和な物腰ですっきりとした顔立ちのローレンと、美丈夫と噂に高いルイゼンが部屋に入ると、エウリルの侍女たちの数人がうっとりとした目で二人を見た。
「立派な花婿さんだ。これは婚儀の後の宴で着る衣装かい」
「そうみたいです。もう胸が痛くて」
「最近、また背がのびたんじゃないか、エウリル。ルクレーヌが見たら驚くよ」
「お姉さまとも、もう一年も会ってませんからね。婚儀が終わってもしばらく王宮に滞在されるんでしょ? ルイゼンも?」
 エウリルがそばにあったソファに座って尋ねると、ローレンは長い足を投げ出して隣に腰を下ろした。そのそばに控えるルイゼンを見上げて、ローレンは君も座りたまえと声をかけた。優雅に一礼してローレンの向かいに座ると、ルイゼンは目を細めてエウリルを見た。
「ローレンさまがおいでの間は王宮に留まりたかったのですが、私は任務がございますので、エウリルさまのご婚儀が済めばすぐにアストリィへ戻らねばなりません」
「お前とも最近ゆっくり話していないし、私はしばらく王宮にいて父上やエウリルと過ごすつもりだ。ああ、髪も伸びているから少し切るといい。ユリアネ、切っておあげ」
「はい、後で」
 ローレンと視線を合わせると、エウリルがさっきまで着ていた服の皺を伸ばしてたたみながらユリアネは答えた。エウリルはサウロン公の屋敷へはいつ移るの? ローレンが尋ねると、エウリルは束ねた髪を気にしながら軽く笑った。
「一か月後だと聞いています。それまではここでと」
「まあ、決まりだから。私の時もそうだったよ」
「見せ物みたいで、恥ずかしい」
 エウリルの言葉に、ローレンは苦笑した。『みたい』じゃなくてそのものなんだけどな。コルセットを気にして胸を押さえているエウリルの横顔を見て、ローレンはその背中を叩いた。
「王太子に比べれば気楽なものだよ。エウリル、王宮を出れば見えてくるものもあるだろう。サウロン公は立派な方だ。彼に教えを乞うて努力を続けなさい」
「はい」
 照れたように笑って、エウリルは頷いた。その時、ノックの音が響いてフィルベントの教育係の一人であるイシキナがそっと顔を出した。どこかおどおどしているようにも見える。
「失礼します。ローレンさまはこちらにおいででしょうか。お呼びと伺いましたが」
「ああ、イシキナ。少し話が聞きたくて。すぐ行くから待っててくれ」
「かしこまりました」
 視線を伏せて、イシキナはチラリとユリアネを見た。ユリアネが視線をそらすと、がっかりしたように肩を落としてイシキナは部屋を出ていった。彼に聞きたいことって何ですの? ユリアネが尋ねると、雰囲気を察して侍女たちが次々と下がっていった。
「この間、本を読んでいたら分からないことがあったので。イシキナは王宮一の物知りだからね」
「あなたの所にも、物知り博士なら大勢いるでしょう。お屋敷のサロンにも貴族平民に関わらず大勢、人が集まっていると聞いておりますわ」
「ユリアネの耳に届いているなら、母上や王太子の耳にも入っているのだろうな。恐い恐い」
 笑いながら立ち上がると、ローレンは重いドアを開いた。ルイゼン、君はここでしばらくエウリルと過ごしていくといい。ローレンが言うと、立ち上がってルイゼンはありがとうございますと頭を下げた。ローレン。エウリルが声をかけると、ローレンは婚儀を楽しみにしているよと言って部屋を出た。
「待たせたね。歩きながら話そう」
 エウリルの自室のドアのそばで控えていたイシキナは、長い袖に両腕を入れて学者様式のお辞儀をした。イシキナはフィルベントやローレンの母であるサニーラ王妃たっての頼みで、その若さにも関わらず老博士たちに混じってフィルベントに歴史と国語を教えていた。お久しぶりでございます。イシキナが挨拶すると、ローレンは堅苦しいことはよそうと言ってからイシキナを見た。
「イシキナはナレオトル大学院に在籍していたと聞いているが、フリレーテという男を知っているか。ナレオトル大学院を卒業したという話だが」
「…」
 一瞬、言葉を詰まらせ、それからイシキナは存じておりますと答えた。エウリルの婚儀のために集ってきた貴族たちが、廊下で固まって歓談していて、ローレンに気づいてにこやかに挨拶をした。彼らに柔和な仕草で挨拶を返すと、ローレンは小声で尋ねた。
「婚儀の前に不吉だと伏せられたが、アリアドネラ伯爵が王宮で亡くなられたのを知っているな」
 イシキナが目を伏せて、はいと小さな声で答えた。
「心臓が止まられたとか。アリアドネラ伯爵の養子を名乗る男が報告に来ました」
「会ったか」
「はい」
「フリレーテ本人だったか」
「はい。向こうは私を知らないようで、ナレオトル大学院卒だと言うと驚いていました。彼はとても目立つ男だったので私は知っていましたが」
 イシキナの言葉に黙り込んで、ローレンは小さく息をついた。アリアドネラ伯爵はご老齢で、確かにいつ発病してもおかしくはなかったが。目を伏せて少し考えると、ローレンはイシキナの肩を叩いて言った。
「確認が取れ次第、彼がアリアドネラ伯爵の財産を受け継ぐことになる。君には関係のないことと思うだろうが、フィルベントのことをしっかり見てやってくれ。今朝、フィルベントと彼が話しているのを見かけたので、少し心配で」
「フィルベントさまはアリアドネラ伯爵のご子息を気に入られたようで、プティ市の様子を聞いたと仰せでございました。ご心配には及ばぬかと」
「そうか」
 短く答えて、ローレンは頷いた。自室に戻ろうとローレンがイシキナに礼を言うと、イシキナはためらってからローレンを呼び止めた。
「あの」
「何?」
 ローレンが振り向くと、イシキナはあの…と言葉を濁して、それから思いきって顔を上げた。
「ローレンさまは、ユリアネとはもう…」
「…ああ」
 一瞬、遠い目でローレンはイシキナを見た。
「あの時はイシキナにも迷惑をかけた。すまなかった」
「いいえ、私のことはお気になさらないで下さい。ただ、ユリアネはまだローレンさまを思っているのでは、と」
 小さな声でイシキナが苦しげに言うと、ローレンは寂しげに微笑んで答えた。
「それは、ないよ。安心してくれ、イシキナ」
 それだけ言うと、ローレンはコツコツと靴を鳴らしながら去っていった。その背中を見つめると、イシキナはため息をついて視線を伏せた。

(c)渡辺キリ