離宮に比べるとだだっ広く長い廊下が苦手だった。王宮のエウリルの自室の上階に位置するフィルベントの自室へ向かうと、エウリルは肩を落とした。
「挨拶だけで日が暮れちゃうよ。もう眠いのに」
「ご婚儀が終われば、ハティさまとゆっくりお眠りになればよろしいではありませんか」
「バカ。余計眠れないよ」
赤くなったエウリルに、隣を歩いていたアサガが笑った。アサガはエウリルの侍女をしている女の息子で、アストラウル人には珍しく黒に近い髪に、目は小動物のように黒目がちで、エウリルよりも更に小柄な体つきをしていた。
「エウリルさまもフィルベントさまやアントニアさまのように、小姓の一人もつけておけば困らずに済むって申し上げましたのに。そうだ、今からでも間に合いますよ」
「バカ。エロアサガ」
真っ赤になったエウリルを見て、アサガが声を上げて笑った。シッ。慌ててアサガの口を塞ぐと、エウリルはフィルベントの部屋の華美なドアを見上げた。
ルヴァンヌ王の第一王妃であるサニーラの、一番気に入りの息子であるフィルベントは、アントニア王太子に次いで王宮では立派な部屋を使っていた。苦手なんだよ。独り言のように呟いたエウリルを笑いを堪えて見て、それからアサガは背筋を伸ばしてドアをノックした。
「失礼いたします。エウリルさまをお連れいたしました」
声が廊下に響いた。フィルベントの小姓が重いドアを開いて、二人を中へ通した。部屋は薄暗く、ろうそくの明かりが揺らめいていた。
「エウリルか」
フィルベントの声はどこか力がなく、エウリルは視線を上げてフィルベントを見た。ろうそくの明かりの下、豪奢なカウチソファに寝転んでいたフィルベントがけだるげにエウリルを見上げた。アサガ、外で控えてくれ。エウリルが小声で囁くと、アサガは慇懃に礼をしてそのまま外へ出た。
重いドアが閉まる。
「お兄さま、お加減でも悪いのですか」
エウリルが近づいて尋ねると、フィルベントは身を起こした。そばにいた小姓の一人がフィルベントの背を支えると、下がれと言ってフィルベントはエウリルを見上げた。
「何でもない。お前…」
何か言いかけて、フィルベントは潤んだ目でエウリルを見上げた。三日ほど前、大広間で見かけたフィルベントとは雰囲気が全く変わっていて、エウリルはゾクッとしてフィルベントから一歩離れた。その細い手首をつかむと、フィルベントは立ち上がった。
「エウリル、サウロン公の息女との婚儀は、本当に行われるのか」
「え…ええ」
今さら何をと言いたいのを堪えて、エウリルが頷いた。フィルベントの力は強く、いつもエウリルに冷たい視線を向けるフィルベントとはどこか違っていた。何があったんだ。フィルベントの熱っぽい目をジッと見ると、エウリルは手を取りかえそうと引っ張った。
「!」
その途端、腕を引っ張られてフィルベントの上に覆いかぶさり、エウリルは息を飲んだ。フィルベント。名を呼んだエウリルの体を抱きしめると、フィルベントはエウリルをソファに組み伏せて囁いた。
「気づいたんだ。気づかされた。エウリル。今さら気づくなんて、いっそ知らないままの方がよかった」
「…!」
驚いてエウリルがフィルベントを見上げると、フィルベントはエウリルの顔を覗き込んだ。それは生きているのか死んでいるのか分からないような、捉えどころのない表情をしていた。カアッと体が熱くなって、エウリルは思わずフィルベントを押しのけた。エウリルが重いドアを体当たりするように開け、狼狽えて外に出ると、フィルベントはぼんやりとその背中を眺めた。
バタンと大きな音と共にドアが閉まり、同時につり下がった緞帳の影から声が響いた。
「バカだな。せっかくチャンスをあげたのに。もう他の人間のものになってしまうよ」
目を細めたフリレーテが、優しげに言葉をかけた。フリレーテ。泣き出しそうな声で名前を呼ぶと、フィルベントは手を伸ばした。
「フィルベント、恐くないよ。それが恋愛なんだよ」
「エウリルは私を憎んでいる。私がエウリルを思ったとしても、私を愛することはないよ」
フリレーテの首筋を抱きしめて、フィルベントは涙を流した。まるで赤子のように無防備に泣いて、フィルベントはフリレーテの腕の中でギュッと目を閉じた。何も分からない世界は恐怖に満ちていた。ただ一つだけすがれるものはフリレーテの美しく長い腕だけで、フィルベントはフリレーテの腕をつかんで泣き続けた。
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