アストラウル戦記

「ユリアネ、僕だよ。いないの」
 恐る恐る話しかけながらアサガがそろそろと進むと、ふいに目の前に棒が突き立てられ、アサガはひっと喉元で声を上げた。アサガ。驚いたようなユリアネの声がして、アサガは泣き出しそうな声で僕だよと答えた。
「ひどいよ。僕だって言ったじゃない。当たってたら死んでるよ」
「何言ってるの。あんな蚊の鳴くような声じゃ、聞こえないわ」
 ひそひそと声をひそめて言うと、ユリアネは棒を引いてトンと地面についた。ガラクタが少し積み上げられて、古いベッドの上には着替えとバラの絵のついた水差しが置かれていた。ホッとしてアサガが無事だったんだねと言うと、ユリアネは眉を上げてアサガを見た。
「私が姿を隠していることを、あなた知ってたの」
「ローレンさまに言いつかったんだ。ユリアネを探して手紙を渡してほしいって。ユリアネ、一体何があったの。エウリルさまのご病気と関係のあることなのか?」
 アサガが尋ねると、ユリアネは口をつぐんだ。
 その様子にため息をつくと、アサガはふいに服を脱いだ。な、何? 真っ赤になったユリアネに、アサガは腹に巻いていた手紙を抜き取って二通とも渡した。
「ローレンさまから。名前の書いてある方を読んでほしいって。僕、ユリアネを探していて捕まりそうになったんだよ、衛兵に。これで何もないなんて言われたら、本当に笑うからね」
 怒ったように言ったアサガから手紙を受け取ると、ユリアネは慌てたように自分に宛てたローレンからの手紙を開封した。便せんが何枚か入っていて、ランタンの明かりに文面をかざして黙ったままユリアネはそれを読んだ。手紙を持つ手が震えて、そのたびにカサカサと音が響いた。
 そこにはエウリルを連れて、オルスナへ逃げてほしいと書かれてあった。
 もう一通の手紙は、オルスナ三世に宛てたものだった。ユリアネへの手紙には、エウリルがエンナとハティを殺した罪で投獄されたこと、アントニアとサニーラにはエウリルを牢から出すつもりがないこと、下手をすれば殺されるかもしれないこと、そして自分がそれに真っ向から反対したために、見張りをつけられ監禁されていることが書かれていた。
 ユリアネ、危険を承知で頼みたい。君しかエウリルを助けられない。
「…ローレン」
 手紙を額に押しつけて、ユリアネは眉をギュッと寄せて目を閉じた。
 無事に生き延びてほしいと手紙の最後は結ばれていた。黙り込んだユリアネを見ると、アサガは懐から金貨の袋を取り出してユリアネに差し出した。
「これ、ローレンさまからユリアネに渡してほしいって」
 半分は自分にと言われた分は、まだ取っていなかった。それでも袋ごと全部渡そうとしたアサガに、ユリアネは首を横に振って袋をアサガの懐に入れ直した。
「アサガ、ここを出たらすぐに、あなたはお母さまを連れてアストラウルのどこか田舎へ移り住みなさい。そうね…サムゲナン市がいいかしら。南の方へ行って、王宮で働いていたこともエウリルさまのことも誰にも口にしてはだめ。いいわね」
「ちょ…ちょっと待ってよ! そんなの分かったなんて言える訳ないだろ! せめて何があったのか教えてくれなきゃ、僕は帰らないよ!」
「いいから黙ってそうしなさい」
 追いつめられたようなユリアネの表情に、ギュッと唇をかみ、それからアサガは眉をひそめて答えた。
「嫌だ。ユリアネ、エウリルさまに何かあったんだろ」
「アサガ」
「ユリアネ、いつかオルスナでは僕みたいな黒い髪や目は珍しくないと言ったよね。エウリルさまも、僕の黒い目が好きだと言って下さった。僕はね、ユリアネ。その時、ユリアネとエウリルさまのためなら何でもしようって、決めたんだ」
「でも」
「母さんも同じことを言うよ。あの人こそ、そう言うよ。僕にいつも、エウリルさまのためなら命を投げ出す覚悟で頑張れって言ってるような人だもの」
 アサガが言うと、ユリアネは両手で顔を覆った。アサガ…。呟いた言葉は声にならなかった。しばらくアサガの肩に顔を押しつけたままジッとしていると、ユリアネはふいに顔を上げてアサガをジッと見つめた。

(c)渡辺キリ