その夜は闇夜で、鼻の先すら見えなかった。
ユリアネと手を繋ぐのは子供の頃以来のことだった。いつの間にかユリアネの手は小さくなっていて、自分が大きくなったのだということに気づいた。ユリアネが音叉の牢獄のある塔の扉を開けると、ゾッとしてアサガは思わずユリアネの手をギュッとつかんだ。
「もし私に何かあったら、アサガ、エウリルさまを連れて逃げてね」
「ユリアネ」
怒ってアサガが名を呼ぶと、ユリアネは私も逃げるわよと言って笑った。ランタンに火をつけずに階段の脇に灯された小さなろうそくの火を頼りに階段を下りると、次第に目が慣れて周りの様子が分かるようになってきた。
「ユリアネ、ここが本当に…」
アサガが言いかけると、ユリアネは人さし指をアサガの唇に当てた。黙ったままぐるぐると長い螺旋階段を降りていった。以前、ルクレーヌに突き飛ばされた時に隠れた柱が見えて、ユリアネとアサガは手を離して袋から棒を取り出した。
その先には小さな鈴がつけられていた。
「行くわよ」
鈴の音を頼りにアサガがユリアネについていくと、その先で衛兵が二人、誰だと鋭く誰何した。それには答えず、ユリアネが二人の間に突っ込んで持っていた棒で衛兵の脇腹を突き倒した。苦しげなうめき声を上げて一人が倒れると、わずかに逃れた衛兵が剣を抜いてユリアネに振り下ろした。
「姉さん!」
下からすくい上げるように、衛兵の手首を鋭く叩き上げた。打ち上げられた剣をユリアネが棒で払い落とした。焦った衛兵が剣を取り上げようとした隙に、アサガが衛兵のみぞおちを棒で突くと、その首筋を後ろから殴り倒してユリアネは息を弾ませながら牢の鍵を探した。
「これかしら。これだといいけど」
「行こう」
中は冷え込んでいて、立っているだけで歯の根が合わないほど寒かった。早く! 声を殺して呼ぶと、アサガはユリアネの手をつかんで駆け出した。奥へ進むほど気温は下がって、白い息が口から溢れては後ろへ流れた。
「エウリルさま!」
牢格子が見えて、アサガは思わずエウリルの名を呼んだ。格子をつかんで揺すっても、中からエウリルの声は聞こえなかった。エウリルさま! ユリアネの声が牢の奥まで響いて、アサガはユリアネの手から鍵を取り上げて南京錠に差し込んだ。
「開いた! 開いたよ!」
顔を真っ赤にしてアサガが言うと、ユリアネは棒を地面に置いて中に飛び込んだ。エウリルは牢の隅で足を抱えて眠り込んでいた。その体はやせ細り、力なく衰えていた。ひどい匂いがして、アサガが信じられない思いでエウリルを抱きかかえると、エウリルはうっすらと目を開いた。
「エウリルさま、ご無事ですか!?」
「アサガ…?」
かすれた声がもれた唇は、かさかさに乾いていた。ユリアネ、水はない? アサガが言うと、ユリアネは泣き出しそうな表情で見当たらないのと答えた。
「くそっ、餓死させるつもりか。姉さん、とにかくここを出よう」
「ええ。大丈夫なの? 立てる?」
ユリアネが支えると、アサガは棒をエウリルの太ももの下へ差し込んでよろよろと背負った。
「何とか行けそうだよ」
やせ細っているとは言え、自分と同じぐらいの背格好で力の抜けきったエウリルは重かった。ユリアネに支えられながら歩き出すと、アサガは倒れている衛兵たちを踏まないようにじりじりと進んだ。
「後で交代の衛兵たちが見つけるだろ。寒い中で気の毒だけど」
「何が気の毒よ。エウリルさまをこんな目に遭わせた奴らよ」
ムッとしてユリアネが答えた。上には逆らえないんだろう。それだけ言って、アサガは長い廊下をエウリルを背負ったまま歩き、一段ずつ階段を上がった。
気が遠くなるほど石段は長く、途中で何度も休みながら二人は少しずつ階段を上がっていった。わずかに出口の明かりが見えると、ユリアネがエウリルにもうすぐですわと声をかけた。起きているのか眠っているのか、エウリルの答えはなかった。気を失っているのかもしれない。心配しながらもエウリルの体のぬくもりに安堵して、ユリアネは先に階段を上がりきって小さな扉を開いた。
外は夢でも見ているかのようにいつも通りの王宮で、アサガは一旦エウリルを芝生の上へ下ろした。力なく下ろされたままの形で倒れ込んだエウリルは、気がついたのかようやくわずかに首をもたげた。ユリアネ、アサガ。エウリルが小さな声で名前を呼ぶと、ユリアネが水をと言って庭にある大きな噴水に向かって駆け出していった。
「エウリルさま、もう大丈夫ですよ! こんなにやせて…」
エウリルの手足は細く、筋肉が衰えていた。アサガ、すまない。そう言って、エウリルはアサガの手を弱々しくつかんだ。大きな蓮の葉に水を受けて戻ってくると、ユリアネは葉の端からエウリルの口元へ水を運んだ。
「…ん」
少しずつ水を飲むと、エウリルはユリアネを見上げた。何か言おうとしたエウリルに首を横に振ると、ユリアネはその手をつかみ、これからオルスナへお連れいたしますと告げた。オルスナへ? かすれた声でエウリルが答えると、アサガはエウリルの体を抱き起こしてまたさっきのように背負った。
「王宮の庭に一部だけ川を引き込んだ水路があるでしょう。そこに舟を用意してあります。行きましょう」
ユリアネに支えられて、アサガはエウリルを担いで歩き出した。塔の長い階段を上がった後の足はガクガクと震えて、歯を食いしばってアサガは口元で笑った。
「情けね」
「大丈夫? アサガ。変わろうか」
「姉さんには、エウリルさまを背負うのは無理だよ」
「でも…」
「いいから先に行って、舟を出せるようにしてきて。衛兵に見つかっていないか心配だ」
アサガが言うと、ユリアネは頷いて駆け出した。ユリアネの支えがなくなると急にエウリルが重く感じた。エウリルさま、もうちょっとですよ。アサガが声をかけると、エウリルが頷いたような気がした。闇に紛れて懸命に歩くと、草木の間からユリアネが手を振るのが見えた。
「ユリアネ!」
名を呼んで、アサガは足を速めた。その途端、ユリアネが崩れるように倒れた。え…。ビクンとしてアサガが足を止めると、ユリアネの向こうに誰か男が立っていた。
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