「あ…」
その男には見覚えがあった。
血のついたナイフを握って、男はゆったりとした笑みを浮かべた。倒れたユリアネの脇腹から血がじわりと染み出した。頭が混乱して、アサガはエウリルを落としそうになって慌ててエウリルを担ぐために下に渡していた棒を握りしめた。
「アリアドネラ…さま」
エウリルの婚儀の前に、フィルベントと一緒にいる所を見たことがあった。なぜこの人がここに。なぜユリアネが。血の気が引いて、アサガは目の前に立つフリレーテを見上げた。
体が動かない。
まるで魔に魅入られたように。
「この女は何かするだろうと思っていたが」
「…あ、あああ…!」
アサガの耳元で、何か恐ろしいものでも見たかのような、恐怖に満ちたエウリルの声が響いた。さっきまで気を失っていたとは思えないほどの強い力で暴れ出したエウリルがアサガの背から落ち、アサガはエウリルさま!と焦ったようにしゃがみ込んだ。
ユリアネ、刺されたのか。この男が刺したのか。
「やめてくれ! お母さま! ハティ!! 二人を殺さないで!」
エウリルの声が闇を引き裂くように響き渡った。この男が殺したのか!? 落とした棒をアサガがつかむと、フリレーテは手に持っていたナイフを横に払った。それはアサガの頬から鼻へ、そして左目をかすめて赤い線を描いた。あっと思う間もなく目に血が染みて、アサガは手に持っていた棒をフリレーテに向かって振り回した。
「うわああああ!」
それはフリレーテの脇に立つ木に当たり、クルクルと円を描いて地面に落ちた。それを見て嫌そうに眉を寄せると、フリレーテはカランと音を立てた棒を拾い上げられないように踏みつけ、アサガの額にナイフを突きつけた。目の前を絶望が駆け抜けた。ユリアネ、僕もユリアネのように刺されるのか。理由も分からずに殺されるのか。考えた瞬間、ドンと何かがぶつかる音がしてフリレーテがドッと地面に倒れ込んだ。
「アサガ! エウリルさまとユリアネを連れて逃げろ!」
それはイシキナの声だった。フリレーテに体当たりして一緒に倒れ込んだイシキナが、もみ合いながら懸命に声を振り絞っていた。なぜここにイシキナがいるのかも分からず、アサガは夢中でエウリルの体を引きずった。
小さな木舟は準備した時と同じ姿でゆらゆらと揺れていた。後ろでイシキナの声が響いて、振り向く余裕もなくアサガはエウリルを小舟の中へ引き入れた。
「イシキナ…なぜ」
フリレーテの低い声が、わずかに怒気を帯びていた。
「ユリアネがいなくなったと聞いてから、アサガをつけていた。フリレーテ、私はお前が何者か知っているぞ!」
フリレーテの襟元を締め上げ、イシキナは憎しみを込めた目でにらみつけた。その瞬間、イシキナはフリレーテの体の上に崩れ落ちた。フリレーテの手にあったナイフがイシキナの胸に刺さっていた。ゲホッと苦しげに咳き込んだフリレーテが、身を起こしてアサガを見据えた。ゾッとして、アサガは小舟を桟橋に繋いだ縄を懸命にほどこうとした。
イシキナの胸から何度か力を込めてナイフを抜き取ると、その体を押しのけてフリレーテは咳き込みながら立ち上がった。懐に入れた金貨の袋を小舟に放り込むと、腹に巻いていた布に気づいてアサガは焦って震える手で布を引っ張って緩めた。そこにはユリアネから預かったオルスナ三世への手紙が入っていて、それを小舟の中で横たわるエウリルの懐に差し込み、アサガは小舟を繋ぐ縄を解いた。
「ア…アサガ…」
エウリルが力なく手を伸ばした。その手を自身の血のついた手でギュッと握りしめると、アサガは血の染みる左目を閉じたまま早口で言った。
「僕は姉さんを助けて、二人で王宮を出ます。エウリルさま、死なないで下さい。あなたに死なれたら僕は…」
「アサガ、駄目だ…逃げろ」
「生きて、必ず生き延びて下さい。そして、オルスナで」
言いかけて、アサガは小舟の縁を足で蹴り出した。舟は水路に沿ってゆっくりと進みはじめた。フリレーテがアサガともみ合う姿が視界の端に映った。アサガ! 懸命に舟の縁をつかんでエウリルが叫ぶと同時に、舟は急に流れに乗ってスピードを上げた。
「アサガ! 死ぬな!」
悲痛な叫びが夜の闇に響いた。お願いだから、もう誰も死ぬな。舟の中でうずくまると、エウリルは二人のために祈りを繰り返した。
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