シャンドランからサニーラへ王子断罪の注進があったと聞いたローレンは、朝早くに王宮を出て、首都アストリィ市にあるアストラウル王立軍の軍長、エウドキア=ド=ハイヴェル侯爵の屋敷へ馬車で向かっていた。
王宮にいては中の動きしか分からない。シャンドランまでエウリルの話がもれているとしたら…考えていると馬車が止まり、御者がハイヴェル侯爵家に到着した旨を告げた。
「ヴァルカン公。お忍びにしては慌てておられるようですが、何事かございましたか。まさかエウリルさまのご容態に何か…」
堂々とした佇まいで、立派な髭を口元にたくわえたハイヴェル卿がローレンを見て尋ねた。ハイヴェル卿はまだ知らないか。表情をそれとなく探るように見ると、ルイゼンは在宅かとローレンは尋ね返した。
「ルイゼンも心配しておりますよ。親子共々、エウリルさまのご結婚の儀に出席させていただきましたが、次の日すぐ倒れられたと使いが来たのでね。その後、ご容態はいかがです」
「詳しい知らせをやれなくてすまなかった。エウリルは大丈夫だ。ルイゼンは?」
「自室におります。サロンでお待ち下さい」
そう言って、ハイヴェル卿はそばにいた侍女にルイゼンを呼びにいくよう告げた。それを遮ると、ローレンはこちらから行こうと言って侍女の案内ももどかしく足早に大階段を上がった。
ハイヴェル卿の一人息子ルイゼンはエウリルよりも二つ年上の二十歳で、今はハイヴェル卿の下で近衛大尉をしていた。エウリルとも親しく、エウリルが病に倒れたと聞いて真っ先に見舞いに訪れたのもルイゼンだった。
突然のローレンの訪問に、自室でサインしなければならない書類に目を通していたルイゼンが驚いて立ち上がった。インクで汚れた指先を紙で拭うと、ルイゼンは大股で部屋を横切りローレンの手を握った。
「ようこそいらっしゃいました。ああ、こんななりですみません」
気軽なシャツ姿のルイゼンを見て、ローレンは構わないよと答えて手を握り返した。ルイゼンは父親に似て、生真面目そうだけれどすっきりとした顔で背が高く、男らしい居姿をしていた。親しげにローレンと挨拶を交わすと、ルイゼンは侍女を呼んでお茶を入れるように告げた。
「二人で話したいのだが、少し時間をくれるか」
ローレンの声はいつもの陽気なそれとは違い、わずかに沈んでいた。雰囲気を察して、紅茶を運んでいた侍女にしばらく誰も来ないようにと言いつけると、ルイゼンはローレンが座ったソファの向かいに腰を下ろした。
「話とは何です。エウリルさまのことですか?」
エウリルの見舞いに行った時にも、顔すら見ることもできず追い返されたばかりだった。様子のおかしい王宮を不審に思いながらも、立場上、何も聞けずに自宅へ戻ったルイゼンは、エウリルやユリアネに宛てた手紙を書いて届けようと考えていた。ルイゼンが尋ねるとローレンは言葉を探した後、ようやく口を開いた。
「王宮のことで何か噂を聞いたか。何でもいい。下のもの、上のものどちらでもいい。密かに流れている噂などはないか」
「噂? 特に何も聞いては…ああ、そういえば、フィルベントさまに恋人ができたとか。アリアドネラ伯爵のご子息と伺いました。それから、スーバルン人のラバスゲリラが、アストラウル軍の包囲網を突破して逃げたという報告はありましたが」
ルイゼンが不思議そうな表情で答えると、ローレンは一瞬黙り込み、それからふーっと長い息を吐いた。やはり表だって噂になっている訳がないか。ひょっとして王宮の衛兵から話がもれたかとも思ったが、あれから関わった衛兵は王宮内にとどめているし、ルイゼンが知らないならそれはないだろう。
シャンドランが直接、誰かと接触して話を聞いたか。一体、誰と…。いや、どちらにせよ、シャンドランに知られたとなれば、真偽のほどはともかく、エウリルが母殺しの罪で捕らえられたことが外にもれるのも時間の問題だろう。
そうなれば、王制に異を唱えるシャンドランたち議会派に、足下をすくわれかねない。
いや、議会派よりも国民だ…彼らに王宮への反発を高めるきっかけを与えてしまうかもしれない。考え込んだローレンに、ルイゼンは黙ったまま言葉を待った。
噂…他に気になる噂などないが。
「ローレンさま、何が起こっているのですか。私で力になれることがあれば、何なりと仰って下さい」
熱心に言いつのるルイゼンに、ローレンは目を伏せた。
いくらエウリルと親しいとは言え、ルイゼンは所詮、王家の人間ではない。別の公爵家が王座についたとしても、彼がハイヴェル家を継ぐ限り、アストラウル軍を支えていかなければならない立場にある。余計なことは耳に入れない方がいい。
「いや、何もないよ。ただ…エウリルが臥せってしまったので少し神経が高ぶっているようだ。すまない」
そう言って笑みを浮かべると、ローレンはティーカップを取り上げて紅茶を一口飲んだ。温かい紅茶は胃に染みた。エウリルの友人としてのルイゼンを信じたいが…何かあった時、父親に逆らえるような男ではない。
「ローレンさま…申し訳ないのですが、エウリルさまに手紙と花をお願いできますか。夕べ書いて、今日中に届けるつもりだったものです。…いつ顔を見られるでしょうか」
ローレンの思惑には気づかず、ルイゼンは身を乗り出すようにして尋ねた。本当にエウリルの心配をしてくれているのだな。そう考えるとホッとして、ローレンは小さく息をついて答えた。
「すまないが、まだ侍医たちの許可が下りないんだ。しばらく無理そうだ…」
「ご病気とは何なのか、分かったのですか」
「それもまだ…分かればすぐに知らせよう」
「お願いします。エウリルさまと約束をしていたんです。婚儀が終わり落ち着けば、一緒に馬を駆って狩りに行こうと。約束は覚えているからと伝えて下さい」
ルイゼンが言うと、ローレンは小さく頷いた。本当のことが言えない…自分にも全ての状況が把握できない今は、言葉を濁すことしかできなかった。王宮から自宅へ戻る途中で寄っただけだ、気にしないでくれ。取り繕うように言って立ち上がると、心配げなルイゼンの視線を避けるようにローレンはルイゼンの自室を出た。
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