アストラウル戦記

「お母さま…どうか、エウリルを牢から出して私にお与え下さい」
 苦しげなフィルベントの言葉に、サニーラは目を見開いた。何を言い出すの。立ち上がって、サニーラはフィルベントに近づきその手を柔らかくつかんだ。
「フィルベント、同情してはなりません。あれが犯した罪は許されるものではないのですよ。ましてやあなたに与えるなど、あなたの血が汚れます」
「けれどお母さま、エウリルが死ぬと思うだけで恐ろしい。私は」
「やめてちょうだい。フィルベント、色々なことがありすぎて疲れているのよ。今度の決定はあなたのためでもあるの。分かるでしょう」
 フィルベントの手を離すと、サニーラはうんざりしたように頭を振った。
 思えばあの女が王の元へ嫁いでから、私には心安らげる日など一日もなかった。オルスナとの友好のためと我慢を重ねてきたけれど、私には一度も見せたことのないような顔を、別の女へ向ける所を何度も見せつけられた。
 いっそ知らない方がよかった。本当は愛することもできたのだと。
「お母さま、お願いです」
 立ち上がって眉をひそめ、懸命に言葉を重ねるフィルベントにサニーラは唇をかんだ。フィルベント、あなたまであの者を取るの。こんなにも愛しているのに。
「二度と言わないで。フィルベント、もう部屋へ戻りなさい」
「でも」
「フィルベント」
 震える声でサニーラが呼ぶと、フィルベントは口をつぐんで部屋を出ていった。誰もいなくなった部屋で、サニーラはソファに座って深いため息をついた。
 新しい恋人ができたという噂は、でたらめだったのかしら。アリアドネラの子息との一時の遊びなら構わないと思っていたのに。
「よりにもよって、エウリルだなんて…」
 やはり殺さなければ。
 目を閉じて、疲れを隠せずサニーラは顔を覆った。音叉の牢獄にいるなら、どうとでもできる。幸いエウリルは発病したと発表したのだし、病が進行して急死したということにすれば。
 …哀れな女だ。
 サニーラの年相応に皺のよった手を、フリレーテは大きな目でジッと見つめた。王太子よりも可愛がっている末の王子から見放され、夫は別の女に心奪われている。ずっと窓際で気配を殺して話を聞いていたフリレーテは、サニーラを見つめたまま笑みを浮かべた。
 この高慢な女からすべてを奪ったら、どうなるだろう。
 気丈に顔を上げて立ち上がると、サニーラは大きく息を吐き出した。そっとそこから離れると、フリレーテは窓際に立ってサニーラの背中を眺めた。エンナは死にエウリルは捕らえられ、このまま放っておけばこの女がエウリルを殺してくれる。
 退屈だ…。まだ気が晴れないのは、オルスナ三世がまだ健在だからだ。アストラウルの軍事力なら、オルスナへ攻め込み支配するのも叶わないことではない。
 あのジジイがくたばる所をこの目で見たいものだ。
 国もプライドも財産も家族も、何もかも奪われて、己の人生が無意味だったのだと思い知らされながら死んでいく所を。
 可哀想なサニーラ。お前は俺にとって、エウリルを死へ導く以外に何の価値もない。
 そっとサニーラから離れると、フリレーテは隣室へ入った。サニーラの私室は華やいだ装飾で埋め尽くされ、大きな天蓋ベッドのそばにある鏡台にはたくさんの宝石箱が置かれていた。その中の一つを手に取ると、フリレーテは蓋を開いて大きな石のついた指輪をつまみ上げた。
 それはサニーラの気に入りの指輪の一つで、エウリルの婚礼の儀の時にはめていたものだった。指輪を自分のほっそりとした指にはめると、フリレーテは隣室に戻ってテーブルの上に顔を伏せているサニーラの耳元に囁いた。
「さようなら。この国は俺がもらう」
 その声もサニーラには聞こえていなかった。のんびりと部屋を横切ると、フリレーテは指にはまった指輪をおもちゃでも見るように楽しげに眺め、それから部屋を出ていった。

(c)渡辺キリ