アストラウル戦記

 イシキナが久しぶりに歴史の教科書を持ってフィルベントの部屋を訪れると、そこで待っていたフィルベントは憔悴して、以前の高慢そうな顔つきは見る影もなかった。
 フィルベントさま、お加減が悪いのでございますか。イシキナが尋ねると、椅子に座っていたフィルベントは口をつぐんだまま首を横に振った。
「いいんだ。続きを教えてくれ。オルスナの内紛からだったな」
 青白い顔のまま教科書を手に取ると、ふいにふらついてフィルベントはそこに突っ伏した。フィルベントさま! イシキナとそばにいた小姓が慌ててフィルベントの体を支えた。その顔色は悪く、何でもないと言いながらも辛そうで、イシキナはおろおろと今日の勉強は取り止めにいたしましょうと告げた。
 学者様式のお辞儀をして部屋を出ると、イシキナはため息をついた。
 この所、何かおかしい。そう、エウリルさまのご婚儀の儀からずっと。
 イシキナは通り過ぎる大臣や貴族たちにお辞儀をしながら、長い廊下を進んだ。エウリルさまは発病されたと聞いたが、一向に病状が発表される気配がない。ルクレーヌさまもローレンさまも、お帰りになられたという話は聞かないのに王宮内で見かけることもない。
 そして、フィルベントさままでもが、今にもご病気で倒れられそうなほど憔悴されている。
 一体、何が…。考えながら気弱げな眉を寄せると、イシキナはアサガがきょろきょろと周りを見回しながら歩いてくるのに気づいた。アサガ、何か探しているのかい。近づいてイシキナが声をかけると、アサガは飛び上がらんばかりに驚いてイシキナに駆け寄った。
「イシキナ、君を探していたんだ。フィルベントさまの所かと思って」
「ああ、お勉強の時間なんだけどフィルベントさまのお具合がどうも…何か用かい?」
 イシキナが尋ねると、アサガはローレンさまがお呼びだと囁いた。何か内密の用だろうか。でなければ侍女が呼びにくるはずだ。少し考えて、イシキナはアサガと共にローレンの元へ向かった。
 途中、王宮の大きな台所に寄ると、アサガは顔見知りの女に声をかけた。ローレンさまのお食事を持っていくよう言われたんだ。アサガが言うと、女は不思議そうな顔でアサガを見た。
「おかしいね。ローレンさまのお食事はもう持っていったはずだけど」
「途中でこぼしてしまったので、改めて取りにいくように言いつかったんだ。早くしておくれ。ローレンさまがお怒りだ」
 アサガの言葉に、女はしぶしぶ豪華な食器に食事を盛り直した。あんたが食べるんじゃないだろうね。念を押されて、アサガは肩を竦めた。
 頼まれて水差しを両手で抱え、後ろを怪訝そうな顔でついてくるイシキナに、アサガはふいに表情を改め、こうしないと入れないんだと言った。どういう意味だい。イシキナが小さな声で尋ね返すと、アサガは王宮の中でも一番地味で目立たない階段を上がりながら答えた。
「ローレンさまから手紙をいただいたんだ。僕はエウリルさまのご婚儀以来、ずっと家にいるよう言われてたんだけど、ローレンさまの従者が言伝を持ってきた」
「え?」
「ローレンさまは今、ご自分では動けないそうだ。見張られているらしい。ルクレーヌさまも」
「見張られて? なぜ…」
「僕にも分からない。でも、ただならぬことが起こっているに違いない」
 開いたことのないドアの前に、衛兵が二人立っていた。アサガが部屋に近づくと、衛兵は咎めるように前に立ちはだかった。
「ローレンさまのお食事をお持ちしました」
「さっき侍女が持ってきたぞ。間違いだろう」
「ローレンさまのお好きなサーモンが入っていなかったので、改めて持ってくるようにと言われました」
 アサガが事務的に答えると、衛兵は退いた。ドアを開けてとアサガが声をかけると、イシキナは慌てて水差しを持ち替えドアを開けた。二人が入ると、ドアはまた重そうな音をたてて閉じた。ローレンさま! アサガが持っていたトレイをテーブルに置いて駆け寄ると、ローレンは嬉しそうに笑ってアサガの手を取った。
「アサガ! ありがとう。来てくれたんだな」
「当たり前です。言われた通り、イシキナも連れて参りました」
 アサガも笑みを浮かべて答えると、ローレンはホッとしたように息を吐いた。イシキナ、ありがとう。ローレンが言うと、イシキナは戸惑うようにいえ…と呟いた。
 部屋に控えていた侍女を下がらせると、ローレンは二人にソファを勧めた。アサガの隣にイシキナも腰かけると、ローレンは時を惜しむように口を開いた。
「アサガ、イシキナ。ユリアネがどこへ行ったか知らないか」
「え…」
 驚いてアサガがローレンを見上げた。いないんですか。アサガが尋ね返すと、イシキナも青ざめて口をつぐんだままローレンを見た。
「やはり知らないか。エウリルの侍女たちはみな一室に集められているが、ユリアネはいないそうだ。衛兵に金をやって探らせたが、ルクレーヌに呼ばれて部屋を出て以来、姿を見たものがいないらしい」
「…そんな」
 言葉を失って、アサガは心配げに目を潤ませた。私もユリアネとはしばらく会っておりません。イシキナが言うと、ローレンはそうかとため息まじりに答えてイシキナを見た。
「イシキナなら行方を知っているかもと思ったが、やはり知らないか。聞きたかったのはそれだけなんだ。すまない、イシキナ。ユリアネを見かけたら…私が心配していたと伝えてくれるか」
「…はい」
「アサガは残ってくれ。少し外の様子を聞かせておくれ。イシキナ、今日のことは他言無用に」
「分かりました」
 そう言って、イシキナは立ち上がってお辞儀をし、水差しを持って部屋を出ていった。水差しは置いていけばいいのに。アサガが言うと、ローレンは笑った。ああ、笑ったのは久しぶりだ。おかしそうにそう言って、それからローレンは椅子を引いて座った。
「アサガ、ユリアネがいれば彼女を呼んで直接話そうと思ったが、それも叶いそうにない。私は見張られていてこの部屋から出ることもできない。だからアサガ、お前がユリアネを探してほしい」
「ローレンさま、なぜこのような所に…王宮で何か起こっているのですね」
 アサガが低い声で尋ねるとローレンは頷き、立ち上がって鏡台の引き出しから二通の封筒を取り出した。片方にはユリアネの名が書いてあったが、もう片方には何も書かれていなかった。
「頼む。これをユリアネに必ず渡してほしい。他の誰にも見せてはいけない。お前の母にもだ。アサガ、約束できるか」
「はい」
「必ずだ」
 そう言って、ローレンは二通の手紙をアサガに渡した。それを受け取ると、アサガは長い布はありますかと尋ねた。
「長い布?」
 ローレンが尋ねると、アサガは頷いて答えた。
「お腹に巻くんです。ここなら絶対に落とさずにすみます」
 ポンと自分の腹を叩いたアサガに、ローレンは吹き出して笑った。侍女に頼んで程よく長い布を持ってこさせると、ローレンは服を脱いだアサガの腹に自分で布を巻きつけ、そこに手紙を挟んだ。
「頼む。それから、これを持っていってくれ」
 アサガの手を取ると、そこにたくさんの金貨が入った袋を置いてローレンはその手をギュッと握りしめた。いけません、ローレンさま。驚いてアサガが押し返すと、ローレンは笑ってその手をもう一度、袋ごと握りしめた。
「いいから。半分は君が受け取って、残りはユリアネに渡しておくれ」
 そして、愛していると伝えてくれ。
 言いかけて、ローレンは口をつぐんだ。今さらユリアネに愛を伝えてどうなるだろう。目を伏せて口元に笑みを浮かべると、ローレンはアサガに手紙を必ず渡してくれともう一度言い聞かせた。
 ユリアネ、無事でいてほしい。

(c)渡辺キリ