ナヴィの熱は夜になっても完全には下がらず、ガスクは日が暮れてすぐに起き出しナヴィを寝かせたまま出かける準備を始めた。
「メシぐらい食ってけよ」
外で地面に座り込んで魚をさばいていたキクともう一人の男が、ガスクの気配に気づいてゲルの中を覗き込んだ。熾き火を利用して蒸し焼きにした芋の匂いがただよっていた。夜のうちにサムゲナンを離れたいんだ。腰に剣を差しながらガスクが答えると、キクは魚を大きな葉に包んでそれを灰の中へ入れた。
「そいつもまだ熱あんだろ」
「熱冷ましが効いたみたいで少し下がった」
「そうか、よかったな」
キクが言うともう一人の男が笑いながら、あんまり引き止めてもしょうがねえだろと言葉を重ねた。じゃあ、これ持ってけよ。手に持っていた棒で熾き火の中を探ると、湯気のたつ芋を取り出してキクはそれをガスクに差し出した。
「ありがとう」
革の手袋をした手で受け取ると、あったけぇと言いながらガスクは布切れを何重かにしてそれをくるんでナヴィの懐に入れた。おい、起きられるか。ガスクが小声でナヴィに囁くと、ナヴィは目を開いて頷いた。
「歩く」
ガスクに手を貸してもらって起き上がると、ナヴィはよろけながら立ち上がった。そのやせた肩にスーバルン人からもらったマントをかけてフードをかぶらせ、ガスクはしっかりとナヴィの体を支えた。二人で外に出ると、魚が焼けるのを待っていたキクたちが顔を上げた。
「お世話になりました。ありがとうございました」
かすれているけれどしっかりとした口調で、ナヴィが言った。
どういたしまして。照れたようにキクともう一人の男がニヤリと笑った。それじゃ、また。ガスクが言うと、キクは軽く手を上げて死ぬなよと答えた。
薄闇に紛れて歩き出すと、ガスクに支えられながらもナヴィの体はまだふらついていた。大丈夫か。ガスクが尋ねると、ナヴィは頷いた。
やっぱり歩いてダッタン市まで戻るのは無理か。
顔色の悪いナヴィを見ると、ガスクは手を離してナヴィに背負ってやるよと言い前に回って身を屈めた。でも…。戸惑うナヴィを振り向いて見ると、ガスクはイライラしたようにナヴィを促した。
「何もダッタンまでおぶってくって言ってんじゃねえ。この先に知り合いの農家が何軒があるから馬を譲ってもらう。そこまでだ。また倒れられたらこっちが困るからな」
「…ありがとう」
小さな声で言って、ナヴィはおずおずとガスクの背に身を預けた。ナヴィの太ももを抱えて軽々と背負うと、ガスクは立ち上がって歩き出した。雑草を踏み分けてしばらく黙ったままガスクが川沿いを歩いていると、ガスクの首筋にしがみついていたナヴィは目を伏せ、フードの影からわずかに見えるガスクの鼻を眺めた。
この人はどうして僕を助けてくれるんだろう…。
スーバルン人ではない僕を、なぜ?
パンネルも、そして僕を見つけてくれた時のエルマもそうだった。王宮にいた時、いろんな人が僕に何かをしてくれたけれど、それはよく知った人間だからだ。愛情、憎悪、利害、体裁、いろんなものが周りにあった。
でも。
ガスクが歩くたびに揺れて、落ちないようにしっかりとしがみついた。マントは分厚くて体温は感じられなかったけれど、なぜか触れたところが熱い気がした。何も持たない僕を、この人はどうして助けてくれるんだろう。
僕にはもう、何もあげられるものはないのに。
何もあげられない。ギュッとガスクの首筋に回した腕に力を込めて、ナヴィは顔を伏せた。涙と共に何か激しい感情が目の奥から込み上げてきた。
僕は助けられながら、まだ生きている。
「気分悪いのか」
ふいに低い声で聞かれて、ナヴィは顔を上げた。ガスクが地面を踏み締めて歩きながら、わずかにナヴィの気配を窺うようにチラリと視線を向けた。声を出したら叫んでしまいそうで、ナヴィは唇を噛み締めてガスクの首筋に顔を伏せ、首を横に振った。
「馬じゃなくて荷馬車の方がいいかもな。後ろで寝たままダッタンまで行けるだろ。全く…いつになったら着けるんだか分かんねえよ」
「…ごめんなさい」
深呼吸をして気持ちを落ち着けると、ナヴィは小さな声で答えた。素直な謝罪に、ガスクがいや…と戸惑うように言葉を返した。
「悪い。言い過ぎた」
「…いえ、僕がいなかったらパンネルは襲われなかったし、あなたも」
「バカ。お前は知らねえだろうが、俺は」
言いかけて、ガスクは黙り込んだ。自分がスーバルンゲリラのリーダーだということを告げるには、ナヴィは『分からなさすぎた』
ナヴィと共にグステ村を脱出してから、どこか危うい気持ちを抱えていた。
お互いに何者かということを知らない方がいいんじゃないのか。もうすぐ別れてしまうのなら。ずっとそんな気がしていた。このままダッタン市へこいつを連れていって、オルスナへ送り出せば、終わる。
この子はオルスナ人だと言い切ったパンネルの言葉を思い出した。ナヴィ。ガスクが呼ぶと、ナヴィは視線を上げた。お前は本当にオルスナ人なのか? そう尋ねようとした時、土手を上がった所にランプを持った男の影が見えた。
「!」
二人同時に緊張して、ガスクがナヴィを背負ったまま駆け出した。おい、ガスクじゃないのか。ランプの光が揺れて、聞き覚えのある声にホッとしてガスクは足を止め、土手を大股で上がった。
「大丈夫だ。俺の知り合いだから」
「知ってる人…多いんですね」
感心したように言ったナヴィの声がおかしかった。笑いを堪えながらまあなと答えると、ガスクは土手を上がってランプを持つ男に近づいた。
「川下の漁師んとこのチビッコが、夕方頃、お前が来るって知らせにきたんだ。何かデカい荷物を持ってるから馬車を貸してやれって」
「ああ、助かる。いつ返せるか分からないから、できれば馬ごと買い取りたいんだが。途中の町で仕入れもしたいし」
「構わんよ。ウチのボロ荷馬車でよけりゃ、そうしてもらえた方が助かる」
笑いながら、男はデカい荷物ってのはこれのことかとガスクに背負われたナヴィを見上げた。紙のように白い顔色をしながらも、わずかににこりと笑みを返したナヴィを見ると、男は珍しい荷物だと言って先に家へ向かって歩き出した。
|