アストラウル戦記

 ガサリと草を踏み分ける音が響いた。
 少数で編成されたグンナの軍は、固まって動きながらスーバルンたちの住むゲルに向かっていた。満月に近い月が出ていて、闇に慣れた目にゲルがはっきりと見えた。
 黙ったままグンナが手を上げると、五人の軍兵たちが散開してゲルを取り囲んだ。中からランタンの光がもれていて、グンナたちは鼻までマスクを引き上げてから一気に中へなだれ込んだ。
「!」
 ゲルの中央で釣り針を直していたキクが、驚いて立ち上がった。お前たち、アストラウルの兵士か! 真っ青になってキクが叫んだ。ゲルの中には他に人はおらず、奥に誰かが寝ていたらしい跡が残っていた。
「二人はどこだ」
 グンナが低い声で尋ねると、剣先を突きつけられたキクはゴクリと唾を飲んでグンナを見上げた。
「誰のこと…」
 グンナが肘でキクのこめかみを殴ると、体の軽いキクは脇にふっ飛んで置いてあった木箱に体をぶつけた。いってえ…。角で肩をぶつけたキクが低く呻くと、グンナは構わずキクの胸ぐらをつかんで頬を殴りつけた。
「ガスク=ファルソと、その連れの男だ。行き先は?」
「知らな…」
 言いかけた言葉の途中で続けて何度も殴られ、ぐったりとしてキクは鼻を押さえた。血が溢れて喉に流れ、それが気持ち悪かった。キクがうっすらと目を開いた瞬間、外で駆けてくる足音が響いた。
 バッとゲルの入り口にかかった布がめくれ上がった。外で見張っていた軍兵が二人、音もなく倒れるのが見えた。着込んだ鎖胴衣を外すように、肩から刀傷が走っていた。
「ガスク! お前…何で」
 ずっと走ってきたのか、ガスクは肩で大きく息をしていた。着ていたマントはなく、革の胸当てと小手をつけていた。キク、大丈夫か。グンナたちをにらみすえ剣を構えたままガスクが尋ねると、キクは頷いて銛に手を伸ばした。
 他のゲルから、寝ていたスーバルン人たちが騒ぎに気づいて出てきた。グンナのそばにいた側近がキクの銛を剣で払うと、ガスクの身から炎のようにゆらりと殺気が上がった。
「ガスク=ファルソ、アストラウル人を匿う義理もないだろう。この集落をつぶされたくなければ、あの男を引き渡せ」
 グンナが低い声で囁いた。ピクリと眉を動かすと、ガスクはグンナの冷めたような目を見据えて答えた。
「確かにあいつを匿う義理はないが、お前らに引き渡すほどけったくそ悪くもないんでね」
「あの男は第一級の罪人だ。引き渡さなければ、お前たち全員を同罪と見なす」
「おめえらにそんな権利があるってのかい。どうせアスティ(アストラウル人)が勝手に決めたルールだろ」
 キクが皮肉げに言葉を返した。兵の一人が殺気立って剣をキクに突きつけた。やめろ。グンナが止め、それから剣を引いてガスクを見た。
 この男を運良く捕らえられたところで、王子の行方を吐くとは思えない。反対にこちらの腹を探られても困る。それなら一旦ここで逃がし、再度襲撃する隙を窺う方がいい。
「罪人がいないここでやり合って、これ以上兵を失うのも惜しい。ガスク=ファルソ、どこへ行こうとしているのか知らないが、道中気をつけることだ」
「お前らこそ、無事にアストリィへ戻れると思うな」
 ガスクが答えると、グンナは倒れた二人の部下を連れて引くように他の兵に命じた。殺気立つスーバルン人たちに囲まれながら外へ出て、剣を構えたままグンナはどけ!と威嚇した。頷いたガスクを見てスーバルン人たちが引くと、グンナたちはまた闇の中へと戻っていった。
「戻ってきたのか。バカだな、ガスク」
 鼻から溢れる血を手の甲で拭うと、キクがガスクを見上げた。
「あいつはどうした」
「農家の納屋に担ぎ込んだ。そこでやつらが武装してこっちに向かったのを見たって聞いた」
「やっちまった方がよかったんじゃないか。何で帰したんだ」
 他のスーバルン人から濡れた布を鼻に押しつけられて、キクがくぐもった声で言うと、ガスクは剣の血を布で拭って鞘に収めた。
「二人はやれるが、三人は無理だ。その間にお前が殺されちゃ、割に合わねえよ」
「お前、ほんっとバカな」
 キクの言葉に、ガスクは黙って口元で笑った。ゲリラなんか向いてねえよ。殴られた頬をさすりながらキクが言うと、ガスクは尤もらしい顔で頷いた。
「その通りだな」
「おい、これ持ってけよ」
 外にいたスーバルン人が、手に持っていた暗い色のマントをガスクに放った。その格好じゃ目立つだろ。そう言ったスーバルン人に礼を言うと、ガスクはマントを羽織ってからゲルを出て振り向いた。
「キク…悪かったな」
「謝るな。お前が悪いなんて誰も思ってねえ。今度あいつらに会ったら、間違いなくぶっ飛ばせよ」
「…ああ」
 軽く笑い返すと、ガスクはフードをかぶってそのまま歩き出した。
 こんな時、自分が歯がゆくてたまらなくなる。
 俺は何をしてるんだ。俺がしていることは、ジンカと同じなんじゃないのか。
 家族を顧みず、同胞のために戦い続けた父親を思い出した。ジンカが戦いに出るたびに、アストラウル兵がグステ村を襲った。パンネルはドン底の生活を立て直すのに必死で、ボロボロになった幼いガスクを抱きしめてくれる手はなかった。
 答えはまだ出ていない。辺りに兵士たちがいないかどうか気配を探りながら、大股で歩いた。
 あいつら、ここまでやるなんて何者だ。本当にただの王宮兵なのか。なぜナヴィを追っているんだ。ナヴィが罪人だというのは本当なのか…考えながら駆けるように川沿いを歩くと、ガスクはふいに土手を駆け上り、ナヴィを預けた農家の納屋のドアを開けた。
 そこにはガスクのマントにくるまって眠っているナヴィの姿が、ランタンの明かりに照らされていた。おい。ガスクが呼ぶと、ナヴィは目を開いてガスクを見上げた。俺が戻るまで起きてろって言ったろ。ナヴィの額に手を当てて熱を測りながらガスクが言うと、ナヴィはごめんと呟いて目を伏せた。
「お前が行けって言ったおかげで、間に合った」
 しゃがんだ状態のまま、ガスクはナヴィの額の汗を拭った。黙って頷くと、ナヴィは身を起こしてガスクにマントを返そうとした。
「いや、いいから羽織っておけ。少し休んでから荷馬車を買って出発しよう」
「…もう買った」
 ガスクに支えられ、熱のためにだるい体を横たわらせると、ナヴィはそう言ってガスクを見上げた。何? ガスクが尋ね返すと、ナヴィは髪に触れて穴の残る耳たぶをガスクに見せた。
「これで、いい馬をくれって頼んだ。馬代には高すぎるから夕食と、後、ガスク以外の奴が来たら知らせてくれるって」
 鍋に入った手つかずのスープを指差してナヴィが言うと、ガスクはナヴィの耳についた他のピアスの石を見て、確かに高すぎるなとため息をついた。いいんだ。ガスクから目をそらすと、ナヴィは目を閉じて答えた。
「僕にはもう必要ないものだから、いいんだ…」
 そう呟いて、ナヴィは髪から手を離した。どういうことなんだ。やはりお前はアストラウルの貴族なのか。そう言いかけて口をつぐむと、それからガスクは眠りに落ちたナヴィの首元までマントを引き上げた。

(c)渡辺キリ