ナヴィ。
アストラウル兵に何度も川へ頭を突っ込まれて、それでも俺に逃げろと叫んだ。あのアストラウル兵は、今でも生きているのだろうか。親父を探しに村へやってきた軍兵の一人だった。
俺がいなければ、ナヴィは逃げることができた。
もし、親父がスーバルンゲリラのリーダーでなければ。
もしあの時、俺がアストラウル兵に捕まらなければ。
「…だからって、何もアストラウル人じゃなくたっていいだろ」
ポツリと呟くと、ガスクはため息をついて椅子の背もたれに身を預けた。パンネルにはわしから言おう。そう言って、カジュインはテーブルの上にあったパンを一つガスクの皿の上へ取り分けた。
「ガスク、お前は何をしに戻ってきたんだ。用があるのはパンネルか、わしの方か」
ワインをグラスに注ぎながらカジュインが尋ねた。ろうそくの炎が空気の流れでユラリと揺れた。皿に放り出したフォークを取り上げると、ガスクはそれでパンを刺した。
「王宮の噂を聞いたか」
「…第四王子の発病なら、サムゲナン市のラバス教寺院の僧に聞いた。重いそうだな。アストリィ市では、町全体が通夜のように沈んでいるとか」
「それだけか?」
「後は、サニーラ王妃のバカ息子がまた新しい恋人を作ったと。浪費の激しい恋人に無駄遣いをさせるような金は王宮にはないはずだと、サムゲナンの僧が怒っていた」
「それじゃ、こういうのはどうだ。エウリル王子が母親を殺して、王宮の牢獄へ入れられた」
ガスクが淡々と言うと、カジュインは肉を切り分ける手を止めた。まさか。カジュインが呟くと、ガスクはやはりデマかと答えてため息をついた。
「ナッツ=マーラが王宮の衛兵から聞いたと言っていた。グウィナンは嘘とまでは言わないにせよ、半信半疑だった。なあ、カジュイン。どう思う? 確かに王宮は今、どこか浮き足立っているように感じる。ダッタン市の中級役人たちが、派手に賄賂を要求したり官給品を横流ししたり…それに、以前よりも衛兵や近衛兵の見回りも減っている。その分、アストリィ市に軍兵が集中しているようだ」
「それで、ナッツ=マーラは打って出ようと言ってるのか。いかにも言いそうだがな」
苦笑してカジュインが尋ねると、ガスクは頷いてフォークでついたパンをつかんで抜いた。
「俺がカジュインに意見を聞きにいっている間に、もう少し確かな情報を集めておくように言った。今さら犬死にはゴメンだが、噂が本当なら攻め込む理由にはなる。もしカジュインが俺ならどうする?」
暗い部屋で、ガスクの低い声がやけに響いた。黙ったまましばらく考えると、カジュインは乾いた喉にワインを流し込んでから口を開いた。
「わしなら待つな。理由とは物事ではなく、流れだ。大局を見なければ勝機はつかめん。今、わしらに…いや、お前たちにその流れが来ているとは思えん。これは一つの事象に過ぎんのだろう」
カジュインが答えると、ガスクは肩の力を抜いて長い息を吐いた。ナッツ=マーラが大人しく引くかな。ニヤリと笑って、ガスクはパンを噛みちぎった。
「グウィナンに任せればいい。ナッツ=マーラはグウィナンの言うことなら聞くだろう。だが、情報は集められるだけ集めておけ。もしそれが本当なら」
カジュインの言葉に、ガスクが視線を上げた。静かな夜に、村のどこかで誰かが笑う声がかすかに届いた。ガスクの目がカジュインを捉えると、カジュインはガスクを真っ直ぐに見つめ返して答えた。
「お前たちにも流れが来るかもしれん。それを見極めることだ」
ガスクが頷くと、カジュインは笑ってワインを飲めと付け加えて瓶を取り上げた。村で作られたワインは、ダッタン市のものよりも口になじんだ。一晩でも体を休めていくといい。そう言って、カジュインは自分のグラスにもワインをなみなみと注いだ。
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