アストラウル戦記

 他には物音一つせず、ただフィルベントの弱々しげな呼吸だけが繰り返されていた。
 装飾の華やかな一室では、線の細い顔が一層儚げに見えた。枕元には王妃サニーラが息を潜めて座っていて、苦しげなフィルベントの表情を心配げに見つめていた。
 ふいにドアをノックする音が響いて、侍女が銀のトレイを持って入ってきた。トレイに乗った銀食器を二つサイドテーブルに置いて、黙ったまま侍女は部屋の入り口に控えた。
「フィルベント」
 サニーラがそっと声をかけると、フィルベントは目を開いてサニーラを見上げた。あなたの好きなオレンジとココアよ。そう言って器に手を伸ばすと、サニーラはどちらがいいかしらと小さな声で尋ねた。
「お母さま…エウリルは?」
 熱っぽい目でフィルベントが尋ね返すと、サニーラは言葉を詰まらせ、器の一つを取り上げてスプーンを手に取った。
「あなたは心配せず、体を治すことをお考えなさい」
「エウリルを連れてきて下さい…これまでのことを謝らなければ」
 そう言ったフィルベントの口元に、サニーラがオレンジの果汁をスプーンですくって運んだ。果汁はフィルベントの柔らかそうな唇を濡らして流れ落ちた。お願い、食べてちょうだい。サニーラが声をかけると、フィルベントはその声が聞こえていないのかぼんやりと天井を見上げた。
「私はずっと、エウリルが羨ましかった。アントニアやローレンのように政務を執る力も、エウリルのようにオルスナとアストラウルを繋ぐ存在意義すら、私にはなかった。エウリルを妾腹と蔑み辛く当たってきたのは、エウリルが私よりもずっと幸せそうに笑っていたからだった」
「フィルベント…お願い」
「お母さま、ずっと考えていたのです。エウリルがなぜエンナ王妃やハティ=サウロンを殺したのか。エウリルに動機はない。彼は殺していない」
「…」
「王妃たちを殺したのは、フリレーテだ」
 サニーラを見上げて、フィルベントが呟いた。
 わずかに目を見開いて、サニーラはしばらく黙り込み、そしてなぜと理由を問うた。フィルベントのはしばみ色の目は、熱で潤んでいた。部屋の入り口に控えていた侍女が、立ったままガクガクと震え出した。それにも構わずフィルベントはサニーラの手をつかんで続けた。
「エウリル以外にはフリレーテにしか王妃たちを殺せない。衛兵が守る初夜の部屋に入れるのは、フリレーテだけです。エウリルが捕らえられた後、エウリルを助け出すことも彼の能力を持ってすればできたはずだった。けれど私がいくら頼んでもそうしなかったのは、彼自身がエウリルを憎んでいるからではないのか」
「どういう意味なの」
 サニーラが震える声で尋ねると、フィルベントは口を閉ざした。
 フリレーテだけが、初夜の部屋に入れた?
 なら、本当にエウリルは王妃たちを殺していないというのか。
 眉を潜めてフィルベントを見つめるサニーラの手を握りしめると、フィルベントは哀願するように手に力を込めた。
「お願いです、お母さま。フリレーテを捕まえて下さい。私は彼の前に出ると、心を意のままに操られてしまう。彼の美しさが私を惑わせたのです。彼の言葉はまるで真実であるかのように心に響く。彼は、悪魔だ」
「フィルベント、落ち着いてちょうだい。興奮したら体に障るわ」
「お願いです、エウリルを助けて」
 フィルベントの目から涙が次々と溢れた。弱々しげに手を離して、フィルベントは目を閉じた。サニーラがその顔を覗き込むと、フィルベントはわずかに唇を開いた。
「私が死んだら…エウリルに恩赦を」
 言葉の後、小さな息がもれた。フィルベントの体がすうっとベッドに沈み込んだ。呆然とフィルベントの顔を見つめて、それからサニーラはガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
 フィルベントの表情は、安らぎに満ちていた。
「いや…いや! フィルベント! フィルベント!!」
 サニーラの手がフィルベントの体を揺すった。王妃さま! 控えていた侍女が慌ててサニーラを後ろから支えた。うわあああと声を上げて涙を流し、サニーラはフィルベントの頭を覆うように抱きしめた。
「お、お医者さまを呼んで参ります」
 取り乱すサニーラに、侍女が慌ててその場を離れようとした。その手首をグッとつかんで、サニーラが頬を涙で濡らしながら目を見開いて侍女を見つめた。
「あなた、最後にフィルベントが言ったことを聞いていないわね」
「あ…」
「聞いていなかったのでしょう?」
 サニーラの言葉は強く、有無を言わせない迫力に満ちていた。黙ったまま震えて侍女が懸命に頷くと、サニーラは手を離して侍女に侍医団を呼びにいくように命じた。
 フィルベント。私の子。
 なぜ死んだの。
 なぜ…。
 エウリルのせいよ。
 あれのせいで、フィルベントは死んでしまった。
 フィルベントが死んだのに、エウリルはなぜまだ生きているの。
 私から夫を奪った女の息子が、私の愛する子を殺した。
「…必ず」
 息の根を止めてみせる。
 目を閉じたフィルベントを、サニーラはだらりと両手を下ろして見つめた。
「フィルベントさま!」
 隣室で詰めていた侍医たちが慌てて部屋に入ってきた。黙ったまま立ち尽くしていたサニーラは侍女によってソファに座らされ、侍医団がフィルベントの体を調べはじめた。悲しみよりも怒りに満ちたサニーラの形相には、誰も気づいていなかった。

(c)渡辺キリ