アストラウル戦記

   5

 第三王子フィルベントの死はすぐに国中に知らされたものの、閉鎖的なスーバルン人コミュニティの中にあるブッタリカの娼館まではまだ届いていなかった。
 対スーバルンゲリラ内戦部隊とゲリラとの小競り合いがあったという話が、フィルベントの死の知らせよりも先に娼館に届いた時、ナヴィは幾人かの男娼や娼婦たちに請われてロビーで文字を教えていた。
「あ、このスペルは違います」
 男娼が粗末な紙に書いたスペルを見て、ナヴィが後ろから手を伸ばして書き直した。間違って覚えてやんの。隣に座っていた別の男娼がからかうと、ナヴィに間違いを教えられた男娼がムッとして答えた。
「しゃあねえじゃん。誰も教えてくれる人がいなかったんだからよ」
「自分の名前ぐらい、ちゃんと書けよ」
 笑い声が起きて、ナヴィも一緒に笑った。ブッタリカの娼館で外まで聞こえるほどの笑い声が聞こえるのはずいぶん久しぶりだった。リーチャがニヤニヤと笑いながら頬杖をついて、ナヴィの短くなった髪が動きに合わせてふさふさと揺れるのを見上げた。ナヴィがそれに気づいて赤くなると、ナザナが持ってきた本を開いていた別の娼婦がナヴィに視線を向けた。
「あんたがいなかったら、本読もうなんて一生思いもしなかったかもね。読めない言葉がたくさんあって、分かんなくても誰も教えてくれないんだもん。昔はアストラウルにもスーバルン人がずっとたくさんいたなんて知らなかったけど、その頃に生まれてたらさ、今みたいにアスティにバカにされずに済んだのかな」
 そうかもしれない。静かに答えてナヴィは目を伏せた。
 ここに来るほとんどのアストラウル人が、スーバルン人たちを虐げているように見えた。男娼や娼婦たちが殴られ罵られても、館の主のブッタリカは客であるアストラウル人には何も言わなかった。一週間に一度、男娼たちは自分の買い物のために外に出ることができたけれど、ナザナやナヴィに頼んで自分は外に出ない者がほとんどだった。リーチャですら、そうだった。
 恥じているんだよ、とアニタが言った。
 金のためにアストラウルに媚売る自分を、同じダッタン市のスーバルン人たちからすら蔑まれていることを恥じているのだと。
「リーチャ! ナヴィ!」
 ふいに裏口のドアが開いて、ナザナが顔を出した。ナヴィとリーチャが振り向くと、ナザナの向こうにマントのフードをかぶった男がふらりと現れた。
「ガスク?」
 リーチャが笑みを浮かべて立ち上がると、男はドアを閉めてフードを外した。その目は切れ長で視線が柔らかく、首筋の髪はラバス教の僧侶らしく短く刈り込まれていた。
「何だ、グウィナンか。何だよ」
 がっかりしたようにリーチャが言うと、グウィナンはリーチャをチラリと見てフンと鼻を鳴らした。グウィナン? 彼が…。ぼんやりと立ったままナヴィが男をジッと見つめると、男もナヴィに気づいた。
「あんたがナヴィか。ガスクから言づてを持ってきた」
 存在感のある低い声が、辺りに響いた。
 なるほど、一目見れば分かる、か。戸惑うナヴィをジロジロと無遠慮に見て、グウィナンはガスクの言葉を思い出した。ナヴィの白い顔は、艶やかな茶褐色の肌を持つスーバルン人の中にいると目立っていた。
「ガスクはどうしたんだよ、グウィナン。内戦部隊に襲撃されたって聞いたけど大丈夫なのか?」
 リーチャからグウィナンと呼ばれた男は背が高く、フードをかぶっているとどことなくガスクに似ていた。黙り込んで様子を見ている男娼たちをチラリと見ると、グウィナンは懐から小さな袋を取り出してナヴィに渡した。
「ガスクから預かりものだ。ガスクは同志と共にあんたをオルスナへ連れていってくれるキャラバンを当たっている。しかし、あんたが軍に追われていることを考えると、やはり引き受けてもらうのは難しいらしい。もう少し時間がかかりそうだ」
「あ…ありがとうございます」
 ナヴィが袋を受け取ると、中には金貨が入っていた。これは? ナヴィが尋ねると、グウィナンは眉を上げてナヴィを見た。
「元々、あんたが持っていたと聞いたが」
「あ…」
 そうか、ガスクが持ってったんだっけ。
 汚れてはいるものの、絹の袋は手触りがよかった。アサガが用意してくれたものだ。目を伏せて袋を両手で包み込むと、ナヴィはそれをグウィナンに差し出した。
「持っていって下さい。ここでは必要ないから」
「俺はガスクからそれを渡すように言われただけだ。返すなら自分で返しな」
 素っ気なく言うと、グウィナンはまたフードをかぶった。待って下さい。行きかけたグウィナンを呼び止めると、ナヴィは少し口ごもってからグウィナンを見上げた。
「ガスクに…もう少しここに留まりたいって伝えてほしいんです」
「なぜ?」
 驚いてグウィナンが尋ね返した。グウィナンの雰囲気はどこか緊張感があって、ナヴィは言葉を詰まらせながら答えた。
「僕はここに来るまで、どこへ行っても同じ世界だと思ってたんです。でも、そうじゃなかった。ここには僕が知らなかったものがたくさんある。それをもっと知りたいんです」
 ナヴィの目は熱意を帯びて潤んでいた。その顔をジッと見つめると、グウィナンはしばらく黙り込んでから口を開いた。
「アストラウル兵に命を狙われている以上、知人がいるならオルスナへ逃げた方があんたのためになると思うが…」
「…でも、僕は」
 そう言って、ナヴィはそっと振り向いた。さっきまでナヴィから字を教わっていた男娼や娼婦たちが、心配げにナヴィたちを見ていた。その視線に行き当たると、ナヴィはグウィナンを真っすぐに見つめて言葉を続けた。
「やっぱりここを放ってはいけません。もうしばらく、彼らが読み書きできるようになるまででいいんです」
 ナヴィがきっぱりと言うと、グウィナンは眉根のシワを深めた。
「ガスクには伝えておく。どちらにせよ、あいつはしばらくここには来られないかもしれない。最近、王宮衛兵の警備が増えているし、第三王子の葬儀が終わるまでは俺たちも動けないからな」
「え…?」
 ドキンと胸が鼓動を打った。目を見開いてナヴィがグウィナンを見上げると、グウィナンは怪訝そうにナヴィの表情を窺った。
「知らなかったのか? 第三王子は三日前に死んだ。今、アストリィは服喪に沈んでいるぞ」
「へえ、とうとうくたばったのか、あのボンクラ王子」
 隣で話を聞いていたリーチャが、ナヴィの肩に後ろから手を置いて口を挟んだ。
 フィルベントが死んだ?
 口元を覆って、ナヴィは込み上げてくる激情を必死に抑えた。長い間冷たくされていたものの、フィルベントは自分にとっては兄という大きな存在だった。最後に会ったのはいつだった? 気分が悪くてナヴィが目を伏せると、リーチャが気づいてナヴィの手首をつかんだ。
「おい、大丈夫か。また具合悪いのか?」
 ナヴィの顔色は真っ青で、リーチャはちょっとゴメンとグウィナンに声をかけてナヴィを部屋へ引っ張っていった。ナザナや他の男娼たちが、黙ったまま二人を見ていた。同じように何も言わずにナヴィの小柄な背中を眺めると、グウィナンはナザナに尋ねた。
「あいつはオルスナ人だと聞いたが、本当にそうなのか?」
「さあ、俺は知らないけど。アスティじゃないの? 目の色がそうじゃん」
 しばらく考え込んだ後、帰ると言ってグウィナンは裏口のドアノブをつかんだ。ガスクによろしく。慌てて言ったナザナに頷くと、グウィナンは外に出てドアを閉め、来た時と同じように大股で歩き出した。
 アスティにしか見えないオルスナ人の貴族。
 婚儀の後、病気で一度も姿を現さない第四王子。
 ナッツ=マーラが聞いた、第四王子が王妃を殺したという噂。
 首元に巻いたショールを口元まで引っぱり上げ、グウィナンは冴えた目を伏せて歩いた。
 第三王子の死を聞いて動揺した、あれは、第四王子エウリルじゃないのか。
「…」
 娼館の裏手の路地で身を潜めていた軍人らしい男が一人、グウィナンの後ろ姿をジッと見つめていた。なぜ娼館に? それではいくら探しても見つからないはずだ。
 頭からかぶったマントのフードの下で、唇からわずかに笑みがもれた。ここまで男につけられていたことは気づかず、グウィナンは考え込みながら素早く娼館から立ち去っていった。

(c)渡辺キリ