アストラウル戦記

 マントごとナヴィをベッドに下ろすと、気を失うように眠っていたナヴィが目を開いた。荷馬車を買った農家を出てから熱が出たり引いたりを繰り返して、肌や唇はカサカサに乾いていた。湯をくれるか。ガスクが頼むと、リーチャはチラリとナヴィを見てから部屋を出ていった。
 しばらくして戻ってきたリーチャの手からカップを受け取ると、ガスクはナヴィの体を支えて湯を飲ませた。ガスク。リーチャが心配げに声をかけると、ガスクはナヴィを寝かせてベッドの端に座った。
「…こいつはパンネルがグステ村で拾った男で、オルスナ人だそうだ。パンネルがそう言っていた」
「オルスナ? でも…」
 さっき開いたナヴィの目は、アストラウル人特有のはしばみ色をしていた。少し黙ってから床に落ちていた粗末な服を着ると、リーチャは尋ねた。
「どういうこと? どうしてここに連れてきたの?」
 部屋の隅に置いた木の椅子を引き寄せて座ると、リーチャは熱のために息の浅いナヴィを見た。病気? ナヴィの顔を覗き込むように見ながらリーチャが言うと、ガスクはナヴィの腰に結んだ袋を外して、中から金貨を一枚取り出しリーチャに渡した。
「こいつをオルスナへ連れていくようにパンネルから頼まれたんだけど、途中で熱が上がって動けなくなったんだ。隠れ家は荒っぽいヤツばっかりだし、ゆっくり眠れないだろ。だから少しの間、ここで預かってもらえないかと思って」
「それで俺のこと、思い出してくれたんだ」
 リーチャが身を乗り出すと、ガスクは口元で笑って、パンネルからこれを預かったからなと言ってリーチャの首にかかったお守りを弾いた。
「リーチャ、頼む」
 立ち上がってマントを羽織り直したガスクを見上げ、リーチャは分かったよと頷いた。少しの間、あの男の看病でもしてやってガスクに感謝されるのも、たまにはいい。
 ニコリと笑ったリーチャにホッと息をついて、ガスクは振り向いた。
「ナヴィ…起きてるか?」
 熱は波のように寄せたり引いたりして、頭がぼーっとしていた。額をガスクの大きな手が覆って、ナヴィはうっすらと目を開いてガスクを見上げた。話を聞いていたのか、不安げに瞳を揺らしてガスクをジッと見つめ、ナヴィは痩せた手でガスクの手首をつかんだ。
「ごめん。迷惑…」
「お前はパンネルやキクたちを助けてくれた。その礼だ」
 横で黙っていたリーチャがチラリとガスクを見た。ガスクがポンポンとナヴィの頭をなでると、ようやく安心したようにナヴィは息をついた。
「リーチャ、ナヴィは王宮兵に追われてるんだ。兵士が大勢出入りしているここなら却ってナヴィがいるとは思われないだろう。俺は隠れ家に戻ってから、できるだけ早くオルスナまでこいつを世話してくれるキャラバンを探す。それまで頼む」
「分かった。そうだ、ガスク。さっきアストラウル兵が言ってたんだけど、王宮の王子が二人病気で倒れたんだって。上の王子は死にかけてるらしいよ」
 何か役に立つ? リーチャが心配げに尋ねると、ガスクは笑みを浮かべて頷いた。役に立つよ。ガスクが言うと、リーチャは嬉しそうに笑みを返した。
「リーチャ、無理しなくていいから、何か聞いたら俺に教えてくれ」
 ガスクの言葉にリーチャが頷くと、ガスクはもう一度ナヴィを見てから部屋を出ようとドアを開けた。そこにはアニタが立っていて、眉をひそめた表情でガスクを見上げた。
「あんた…その子が王宮兵に追われてるってホントかい」
 ガスクが黙ったままわずかに頷くと、アニタは大きく息をついた。
「仕方ないね。リーチャだけじゃ心もとないし、あたしも協力してやるよ。あんたはとっとと出ていきな。商人探すんだろ」
「分かってるよ」
 どこか姉御口調なアニタに、苦手意識丸出しで答えてガスクは部屋を出た。今度は娼館の表のドアを開けたガスクを、リーチャは切なげに見上げた。
「リーチャ、いつも面倒かけるな」
「バカ言うなよ。仲間じゃねえか。またすぐに来るんだろ?」
 リーチャの言葉に、ガスクは頷いて娼館を出ていった。フードをかぶって去っていくガスクの背中をしばらく見つめていると、後ろからアニタに肩をつかまれてリーチャは振り向いた。
「バカだね、ホントにあんたは」
「…何だよ」
「あいつがいるだけで殺されたヤツが、何人いると思ってんだ。危ない男なんだよ。あんた、いつか殺されるよ」
「そんなこと、そんな…ガスクのために殺されるなら、それでもいい」
 リーチャが目の端をこすると、ふいにロビーがざわついた。ロビーにいた娼婦たちが、ガスクから受け取った金を奪い合いケンカになっていた。やめなよ! アニタが慌てて割って入ると、騒ぎに気づいたブッタリカが自室から出てきて鞭をつかんだ。
「お前たち、何を騒いでるんだ! やめねえか!」
 鞭に気づいた娼婦たちが、脅えたように離れた。何だ、この金は。娼婦の手から銀貨をむしり取ると、ブッタリカは誰からもらったと詰め寄った。
「ガスクだよ。知ってんだろ。騒がせ賃なんだから、渡してやってくれ」
 リーチャが言うとブッタリカは言葉を詰まらせ、ブツブツと文句を言いながら銀貨をアニタに渡した。アニー、ナザナが来たら酒を買わせに行ってくれ。そう頼んだブッタリカに、他の娼婦や男娼たちはようやく緊張を解いた。
「ブッタリカさん」
 部屋に戻ろうとしたブッタリカを見て、リーチャが小声で話しかけた。何だ、リーチャ。ブッタリカが振り向くと、リーチャは手に持っていた金貨をこっそりとブッタリカに見せた。
「ガスクから頼まれものなんだ。俺より若い男なんだけど。俺の部屋の隣が空いてるし、そこに寝かせてやって」
「なっ! …何を言い出すんだ。ダメに決まってるだろう。その男ってのはどこに」
「俺の部屋。まさか客が来てる間、俺の部屋へ置いておく訳にはいかないだろ。病気で動けないんだ。な、頼むよ。ブッタリカさんが役人たちに賄賂ばらまいて税金ちょろまかしてるって、絶対に誰にも言わないから」
「ば、バカな…」
「これで、お願い」
 甘えたような声で金貨をちらつかせたリーチャに、何か考え込むように深いため息をついてブッタリカはしょうがねえなとリーチャの持つ金貨を取り上げようとした。まだダメだよ。いたずらっぽく言って金貨をポケットに入れると、リーチャは身を引いて天真爛漫な笑みを見せた。
「ガスクが無事ナヴィを迎えにきたら、その時に渡すよ。じゃあブッタリカさん、よろしくね」
 ポンと大きな背中を叩いて、リーチャは笑った。客は絶対に取らせないでよ。ふざけ半分本気半分で言ったリーチャを見ると、ブッタリカは全くと呟いてため息をもらした。

(c)渡辺キリ