久しぶりのベッドで一日ぐっすりと眠って、目を覚ますと部屋は真っ暗だった。ドアの隙間から明かりがもれていて、眩しさに目を細めた。部屋の外はどこか騒がしかったけれど、人の気配に安堵してナヴィはもう一度目を閉じた。
さっき、リーチャが王宮で二人の王子が病気だと言っていた。
誰のことだろう。一人は僕のことだろうか。もう一人が病気って…アントニアのことならもっと大騒ぎになっているはずだ。ローレン? それともフィルベント?
パンネル…アサガ、ユリアネ。
みんな無事だろうか。思うと胸が痛くて、ナヴィは粗末な毛布をギュッとつかんでから両手で目を覆った。みんな、僕のせいで。涙が込み上げてナヴィは嗚咽をもらした。
ガスクがいたおかげで考えずに済んだことが、一人になると大波のように押し寄せてきた。長く悪い夢を見ているだけならどんなにいいか。声を殺してしばらく涙を流していると、ふいにドアが開いてナヴィは慌てて目尻を拭った。
「夕飯食べるだろ。来な」
無愛想にアニタが言った。春の暖かな陽気の夜で、アニタはほとんど下着に近い格好をしていた。赤くなってナヴィが慌てて目をそらすと、アニタはニヤリと笑って部屋に入ってきた。
「何、あんたその年でドーテーなの? どこのお坊っちゃんだよ」
「いえ、あの…」
「金持ってんなら教えてやってもいいよ。あんまり知らないと、初めての時に困るだろ」
ベッドの端に座ってナヴィの体にしなだれかかったアニタが言った。耳の先まで真っ赤になると、ナヴィは身を引きながらしどろもどろになって答えた。
「僕…お金は」
「何だ、文無しか。がっかりさせんじゃないよ」
ガラッと態度を変えて、アニタはバサバサと髪をかき上げた。その横顔をそっと窺ってナヴィは息を殺した。
アストラウル人だ。
ここは…娼館だとガスクが言っていた。娼館にいるのはソフ教を信仰しないスーバルン人ばかりだと習ったのに…他にもアストラウル人がいるんだろうか。黙ったままナヴィが考えていると、ふいにアニタがナヴィを見て尋ねた。
「あんた、王宮の軍隊に追われてるんだって? 何やったんだよ」
それにはたっぷりの好奇心と、ほんの少し心配が含まれていた。言葉を詰まらせて目を伏せると、ナヴィは誤魔化すように言った。
「少し、事情があって」
「何だよ、つまんないヤツだね。言っちゃいなよ。大丈夫、チクったりしないからさ。あたしも同じようなもんだからね」
「同じ?」
ナヴィが視線を上げると、アニタはうんざりしたように答えた。
「あたしの父親はね、王宮に出入りしていた音楽家だったんだ。バイオリンが上手くてね、貴族のお抱えになって、急に呼ばれてはバイオリン持って出かけてた。優しい人でさ、あたしたちにいつも王宮でもらったお菓子や花を持って帰ってくれたんだ」
「…」
誰のことだろう。記憶を巡らせてナヴィはアニタの顔を見つめた。貴族が連れてくる音楽家は星の数ほどいて、そのうちの数人は父王や王太子に気に入られてしばらく王宮に留まることもあった。僕が見たことのある人だろうか。ナヴィが黙っていると、アニタは足を組んで頬杖をついた。
「あたしの父親は普通だったよ、普通過ぎるぐらい。今でも何で殺されたのか分からないぐらいだ」
「殺された?」
驚いてナヴィが尋ね返すと、アニタは何でもないことのように言葉を続けた。
「そうだよ。いきなりさ。あの日はあたし、学校に行ってた。帰ってきたら家で父親がベッドに寝かされてて、母親がそばで泣きわめいてた。演奏している時、酔った貴族とぶつかって、その貴族が連れてた犬を踏んだんだと。それだけの理由で殺された」
「そんな…バカなこと」
「バカな理由だって思うだろ。あたしはまだ子供だったけど、そう思ったよ。だから貴族や王宮は敵みたいなもんさ。ここに来る兵隊たちだって、金持ってなきゃ片っ端から斬り殺してやりたいぐらいだよ」
「裁判は? 国民議会直属の裁判所にかければ」
「そんな金あるかよ!」
ふいに激高して、アニタはナヴィを怒鳴りつけた。呆然とアニタを見つめたナヴィに、腹立たしげにアニタは長い髪をかき上げて目をそらした。
「大体、平民の女子供が貴族を訴えて、勝てるとでも思ってんの? あんた、よっぽど物知らずのお坊っちゃんなんだね。あたしたちにできることは、貴族を憎むことだけさ。あたしがこんな所で商売してんのも、弟妹残して死んだ父親代わりに稼がなきゃ、一家で路頭に迷うしかないからだ」
「…」
その前から貧乏だったけどね、うちは。自嘲気味に笑って、アニタは大きく息を吐いた。ごめん、怒鳴っちまった。視線を戻してアニタが言うと、ナヴィは目を伏せて首を横に振った。
「僕こそ、無神経なことを…すみません」
ぺこりと小さく頭を下げると、ナヴィは重くなった胸を押さえた。
僕は何も分かっていない。
先生から習って知っていただけで、何も分かっていなかった。
「あんた、物知らずだけど根はいいヤツみたいだね。名前は?」
ふいに好奇心旺盛な目で見られて、ナヴィは一瞬迷った後、軽く笑みを浮かべて答えた。
「ナヴィ」
「あたしはアニタ。すぐ行っちゃうんだろうけど、ここにいる間はあたしも面倒みてやるよ。困ったことがあったら言いな」
「ありがとう」
心の底から安堵したようにナヴィが笑うと、アニタは腹減ったろ、メシ食いなよと笑みを返して立ち上がった。ナヴィがよろけながら後をついていくと、アニタはチラリとナヴィを振り向いて部屋のドアノブをつかんだ。
「熱は下がったみたいだね。後で体拭く湯をもらうといいよ。あんた、汗臭いよ」
「えっ?」
真っ赤になって、ナヴィは慌てて自分の肩を匂った。まあ、熱出しながら旅してたんじゃしょうがないか。その様子を見ておかしそうに笑うと、アニタは部屋を出てリーチャの名前を呼んだ。
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