アストラウル戦記

 朝から慣れない雑事をこなすとクタクタになって、ナヴィは与えられた部屋に入ってベッドに倒れ込んだ。また少し熱っぽいような気がして、一日でガサガサに荒れた手で額を押さえ、ゆっくりと目を閉じる。
 どこかで誰かが喘ぐ声が聞こえた。その猥雑さには一日では慣れなかった。どこか気分がざわついて、ナヴィは身を起こしベッドに座って靴を脱いだ。
 ガスクは本当に戻ってくるだろうか。
 パンネルがナヴィに持たせた金貨の入った袋も、細身の剣もガスクが持っていってしまった。戻ってこなかったとしてもおかしくはない。これまで世話をしてくれた方が不思議なぐらいだ。身の置き所のない不安を抱えたまま、ナヴィはまたベッドに寝転んで天井を見上げた。
 もう会えなかったら…。
 ガスクの傷だらけの顔を思い出して、ナヴィは眉を寄せた。体の芯が熱に浮かされていた。どこの誰かも今何をしているのかも、正体の分からない男。パンネルですら、ガスクがグステ村に戻ってきたのは何年ぶりのことだと言っていた。
 目を閉じると、広い背中を思い出した。疲れすぎてすぐには眠気を呼び込めなかった。寝転んだまま毛布もかぶらずしばらくそのままでいると、ふいにドアをノックする音が聞こえてナヴィはノロノロと身を起こした。
「はい」
 ナヴィがドアを開けると、そこにはブッタリカが立っていた。驚いてナヴィがぺこりと頭を下げると、ブッタリカは少し言葉を探してから口を開いた。
「明日は今日よりも早く起きるんだ。ウチのやつらの散髪を手伝ってもらう。身汚くしてたら客が寄り付かねえ」
「はい」
「リーチャは風呂嫌いだから、散髪の前にふんじばって風呂に入れろ。それが起きて一番の仕事だ。しっかりやれ」
「分かりました」
 風呂嫌いって、子供じゃあるまいし。何だかおかしくてナヴィが笑いを堪えると、ブッタリカは行きかけて、それから懐に手を入れながら戻ってきた。
「これを」
 そう言ってナヴィの手に小さな包みを握らせた。ナヴィが包みを開くと、中には飴が入っていた。ありがとうございます。ナヴィが笑みを見せると、ブッタリカは黙ったままそこを立ち去った。
 可愛い飴だな。誰かからもらったのかな。あの人が買ってきたとは思えないし。
 ドアを閉めて飴を眺めていると、ふいにまたドアが開いた。押されてナヴィが前につんのめると、リーチャとナザナが部屋を覗き込んでから入ってきた。
「文字教えてくれるってホント? 俺にも教えろよ」
「リーチャは物好きだよ。文字なんか覚えたって食えやしねえのに」
 本を持ってリーチャがベッドに座ると、呆れたようにナザナがため息をついた。いいよ、一緒にやろう。そう言って、ナヴィは手に包みを持ったままリーチャの隣に腰を下ろした。
「あれ、何それ」
 ナザナが包みに気づいて尋ねた。ああ。包みを開いて飴を取り出すと、ナヴィはそれをナザナとリーチャに渡しながら答えた。
「さっきブッタリカさんにもらった」
「ブッタリカに!?」
 驚いたリーチャとナザナを見て、ナヴィは焦って何で?と尋ね返した。ナザナと顔を見合わせると、リーチャは手に持っていた飴をペロリと舐めた。
「本物だ。あの野郎、この辺りでは手にしたものは絶対に離さないドケチで有名なんだぜ。ここに来て十年になるけど、飴玉どころか水一滴すら、ブッタリカからただでもらったことなんかねえよ」
「俺も」
 何かあるんじゃねえの? ナザナが気味悪そうに、けれど滅多に食べられない甘い物への誘惑に負けて飴を口に放り込みながら呟いた。分からないよ。戸惑いながらナヴィが言うと、リーチャは黙ったままナヴィの横顔を眺めた。
 ブッタリカの死んだ息子、生きてればちょうどこれぐらいか。
 同じアストラウル人というだけで、似ても似つかないバカ息子だったけど。
「ま、嫌われるよりは居着きやすいんじゃね?」
「そうだね」
 にこりと笑うと、ナヴィも飴を一つ口に入れた。それは舌に刺すような甘さだった。うめえ。嬉しそうに言ったナザナを見上げると、リーチャは座んなとベッドを指差して本を開いた。
「お前、飴玉ぐらいで喜んでちゃ、ガスクの所でなんかやってけないぜえ。敵に飴玉もらったからってホイホイ情報教えてちゃ、グウィナンに斬られちまう」
 ニヤリと笑ったリーチャを見て、ナヴィは首を傾げた。また『グウィナン』。ナヴィが黙っていると、ナザナは手を頭の後ろで組んで笑いながら答えた。
「そんなことしねえよ。俺だってガスクのとこでなら一人前になってみせるさ。だから文字なんか知らなくたって平気だって。ガスクだってそうだもん」
「ガスクはアストラウル語は書けないけど、オルスナ語は結構喋れるし書けるじゃん。計算もできるしよ」
 リーチャの言葉に、ナヴィはナザナを見上げて口を開いた。
「ガスクは商人なの? 途中でオルスナ人と何かやりとりをしてたみたいだけど」
 ナヴィが尋ねると、リーチャはハッと気づいたように口をつぐんだ。それには気づかず、ナザナは笑って答えた。
「ちげーよ。知らねえの? ガスクはスーバルンゲリラのリーダーなんだぜ。すっげえ強いんだから」
「バカッ! 言うな!」
 驚きで目を見開いたナヴィの隣で、リーチャがナザナの足を蹴った。その表情を見てナザナが狼狽えた。ゲリラ? スーバルンの? 歴史で習った数年前の内戦を思い出して、ナヴィは呆然としたままリーチャを見つめた。
「お前、本当にアストラウルのスパイなんかじゃないだろうな」
 問いつめるようにリーチャが尋ねた。ナヴィが言葉を失ったまま小さく頷いた。スパイなんかじゃない。はっきりとナヴィが答えると、リーチャは肩の力を抜いてナヴィの顔を覗き込んだ。
「ま、こんな何もできない間抜けなヤツがスパイの訳ないか。ガスクが連れてきたんだしな」
「ごめん、リーチャ」
「全く、ナザナは口が軽いんだよ。それでゲリラなんて絶対ムリ。諦めな」
 大体、おめえはアストラウル人だろうがよ。呆れたように言ったリーチャに、ナザナは怒ったように声を荒げて答えた。
「関係ないだろ! 王宮や貴族なんかいらない。もうウンザリなんだよ! それだったらガスクたちと一緒に戦った方がずっとマシだ。ガスクだって分かってくれるよ」
「バーカ、ガスクはよくてもグウィナンが反対するに決まってる。あいつはバリバリのラバス『狂』なんだからよ。お前、ソフじゃん」
「俺は何も信じてなんかいない。王宮も、ソフ教も」
 低い声で答えると、ナザナはナヴィのそばに腰を下ろして教えてくれよとまだ怒ったように言った。ソフ教を信奉しない…王宮や貴族は必要ないと考えるアストラウル人もいる。言葉が胸を突き刺し、それは痛みに変わった。ナヴィ? リーチャが呼ぶと、ナヴィはハッと我に返って何でもないんだと取り繕うように呟いた。

(c)渡辺キリ