アストラウル戦記

 ブッタリカに言われた通りリーチャは風呂嫌いで、最後の最後まで抵抗した挙げ句にナザナに羽交い締めにされ、風呂場へ引きずられていった。ナヴィが袖とズボンの裾をまくって中へ入ると、リーチャは借りてきた猫のように大人しくなっていた。
「お前か。髪も洗えないんじゃないの?」
 ナヴィが平民ではないことを薄々感づいているのか、リーチャがニヤリと笑って厭味を言った。そんなことは…と唇を尖らせると、ナヴィは侍女たちが自分の体を洗ってくれた時のことを思い出して石けんを手に取った。
 リーチャの髪は柔らかくて、ナヴィより背が低く体も細かった。ナヴィがしばらく黙ってリーチャの髪を丁寧に洗っていると、ふいにリーチャが口を開いた。
「ガスク来ねえな。もう四日たつのにな。ま、一度来ると後は一か月も二か月も来ない方が当たり前だけど」
「…」
 ガスクは定期的にリーチャに会いにきてるんだな。細い首筋を眺めながら考えると、胸のどこかがチクリと痛いような気がした。ガスクはリーチャを大事に思ってるんだろうか。リーチャはガスクを好きなんだろう、けど。考えると、ナヴィはリーチャの頭の上から湯をかけて泡を流した。
 僕と知り合う以前から、ガスクにもリーチャにも、自分の世界がある。
 尊敬? 恋愛? 髪をかき上げて水分を扱いているリーチャを見ると、ナヴィは目を伏せた。どちらにせよ、ガスクはリーチャの全てだ。
「リーチャ、ガスクのこと本当に大事に思ってんだね」
 ナヴィが呟くと、リーチャは振り向いて口元に笑みを見せた。自分より大事だよ。あっさりとそう答えて、リーチャはナヴィを見上げた。
「俺、グステ村出身だって言ったじゃん」
「うん」
 ナヴィが布に石けんをこすりつけて泡立てていると、リーチャはナヴィから目をそらした。
「俺の親さ、親父もお袋もどうしようもないクズでさ。いつも物乞いみたいなことしては酒飲んで、挙げ句の果てには教会の燭台を盗んで売りさばいたりしてた。村の嫌われモンだったのよ。そんなのに育てられたら、やっぱこうなるじゃん」
 答えようがなくてナヴィが黙っていると、リーチャは笑いながらお前のそういうとこ結構好きだよと言った。ナヴィが何?と尋ね返すと、リーチャは腕を出して促しながら答えた。
「おべっかみたいなの言わないだろ。そんなことない、とか」
「…会ったことがないから」
 戸惑うようにナヴィが言うと、リーチャは吹き出しておかしそうに笑った。そんなに変だろうか。考えながらナヴィがリーチャの腕を取って洗い出すと、リーチャはまだクックッと笑ってナヴィを見た。
「俺もちっちゃい頃から腹が減ったら人ん家の台所へ勝手に入ってって食いもん盗んだり、畑を荒らしたりさ。それが普通だと思ってた。そしたらいきなりさ、十歳ぐらいの時にダッタンから来たデカイ男にとっ捕まって、てっきり牢屋にでも入れられるんだと思ったら、親父が俺をブッタリカの野郎に売り飛ばしたんだと」
「…え?」
 驚いて、思わず手を止めた。ナヴィがリーチャの目を見ると、リーチャはナヴィの手から布を取り上げて自分の体を洗い始めた。言葉を失ってナヴィがリーチャの背中を見つめると、リーチャは胸に泡を塗りつけて口を開いた。
「何年か経ってガスクが訪ねてきて、その頃はまだガスクはゲリラなんかやってなくてさ、『ただの』ジンカの息子だった。ガスクが、咄嗟に俺の家に隠れたせいで親父とお袋が兵隊に殺されたって。謝ろうにも謝りきれないって、自分で稼いだありったけの金持ってきてくれてさ。俺、それまでめちゃくちゃ親を恨んでて、ここを出たら絶対に殺してやろうって思ってた。でも、ガスクのおかげでクソみたいな親は死んでくれた」
「リーチャ」
「何? 親は大切にしろとでも言いたい?」
 チラリと流し目でナヴィを見ると、リーチャは皮肉気に笑った。
 恨む? 憎む? 僕には…。
 考えた瞬間、脳裏にエンナとハティの死体が浮かんだ。身が焼けつくような激情が吹き出して、ナヴィは思わず口元を覆った。この世で何よりも大切な二人を、何の理由もなく殺された。僕の全てを、奪われ、踏みにじられた。
「ナヴィ?」
 はあはあと大きく息を繰り返して、ナヴィは胸元をつかんだ。あの男が殺した。消えてなくなった、もう取り戻せない僕のかけがえのないもの。
「…分かるよ」
 この憎しみだけは、どうあがいても消すことはできない。
 ナヴィが低い声で呟くとリーチャは黙ってナヴィを見つめ、それから笑みを浮かべた。
「お前、ぽけぽけして幸せそうに見えるけど、そうでもないんだな。てっきり説教たれるのかと思ったよ」
 リーチャの遠慮のない言葉にナヴィが苦笑すると、リーチャは背中洗ってと言ってナヴィに布切れを渡した。ナヴィが泡のついた布で小柄な背中を洗っていると、ふいにリーチャが呟いた。
「それからずっと、ガスクは俺に会いにくるんだよ。だから、言ってやらないんだ」
「…」
 ナヴィが首を傾げると、リーチャはわずかに振り向いた。
「もういいよって、俺の親が死んだのはガスクのせいじゃないって、一生言ってやらないんだ、俺」
 そうすれば、ガスクはいつまでも俺に会いにきてくれるから。
 どこか匂い立つような色香を放って、リーチャは真顔でナヴィを見つめた。どう言葉を返していいのか分からなかった。ナヴィが黙っていると、しばらくしてリーチャは手の泡を吹き飛ばして口を開いた。
「お前さあ、ついでに髪切ってもらえよ。短くすれば、ちょっとは普通っぽく見えんじゃねえ?」
「普通?」
「髪が綺麗すぎるんだよ。長いと目立つだろ。いかにも貴族サマって感じ。手はちょっとマシになってきたけどさ」
 雑用でカサカサに荒れたナヴィの白い手をつかむと、それをナヴィ自身に見せてリーチャは屈託なく笑った。リーチャも、そしてガスクも僕を貴族か何かだと思っているんだろうか。ぼんやりと考えると、ナヴィは早く出ないと風邪ひくよと声をかけてリーチャの背中をまた洗い始めた。

(c)渡辺キリ