グウィナンとの出会いとフィルベントの死を聞いたことで、気が騒いでいた。自分の部屋に戻っても眠れず、ナヴィは何度も寝返りを打った後、水を飲もうと起き上がった。
裏口に近い所に置いた水瓶から器で水を汲むと、それを飲み干してナヴィは大きく息をついた。
フィルベント、本当に死んだのか。
もし王宮に帰れても、フィルベントはもういないのか。
「…っ」
口元を押さえて、ナヴィはその場に座り込んだ。涙が次々と溢れて、服を濡らした。
帰りたい。
誰にも気づかれないよう声を懸命に殺して、ナヴィは顔を両手で覆った。けれど王宮にはもう僕の居場所はない。王宮兵が僕を殺してまで捕らえようとした、それはハイヴェル卿が命じたのだろうか。
…もう遠い。
ふいに気配を感じて、ナヴィは顔を上げた。男娼たちの誰かが起き出してきたのかと考え、振り向いて立ち上がった。
「エウリルさま」
「あ」
「私は王立軍諜報部隊曹長のイルオマです。騒ぎを起こしたくはありません。どうかお静かに」
降って湧いたように音もなく目の前に立つ男は民間人の格好をしていたけれど、仕草や体型がどこか軍人らしかった。ナヴィが後ずさると、イルオマは早口で言葉を続けた。
「ダッタン市の手前でエウリルさまを襲ったのは、私とは別働隊です。私はエウリルさまを傷つけずにアストリィへお連れするよう、ルイゼンさまより命ぜられております。ご安心下さい」
「ルイゼン!? ルイゼンが僕を?」
頬を赤くして、エウリルはイルオマを見つめた。彼は僕を信じてくれているのか。言葉にならずに涙が一筋頬を伝って、エウリルはそれを慌てて手の甲で拭った。
「でも、僕は…」
「エウリルさま、残念ながらハイヴェル卿は、ルイゼンさまのようにエウリルさまの無実を確信してはおられません。王都へ戻られれば、ルイゼンさまの元へお連れした後、ハイヴェル卿に保護され裁判をお受けになられることになります」
「イルオマ、君は僕を捕らえにきた軍とは別働隊だと言ったな。それでは僕をグステ村で捕らえようとしたのは、ハイヴェル卿管轄の王立軍ではないのか」
ナヴィが尋ねると、イルオマは言葉を詰まらせた。話してもいいものかどうか躊躇して、それからナヴィに促されてイルオマは答えた。
「アントニア王太子の直属部隊と思われます」
息を飲んで、ナヴィがイルオマを見た。
では、アントニアが僕を捕らえようと兵を出したのか。
生死に関わらず、僕を捕らえよと。
「けれど、今は幸いエウリルさまがここにいらっしゃることは、奴らには気づかれていません。私はエウリルさまがダッタン市まで一緒にいたゲリラの仲間を尾行して、ここを突き止めたのですが、今頃奴らはゲリラとエウリルさまが行動を共にしていると考え、襲撃をかけているはずです」
「え!?」
ナヴィはイルオマを凝視した。ガスクが襲われている? 僕はそこにいないのに。ナヴィが言葉を失うと、それに気づいてイルオマが怪訝そうな表情をした。ふいに誰かいるのとイルオマの後ろからアニタの声がして、イルオマは素早くナヴィの手首をつかんだ。
「エウリルさま、どうかこのまま私とアストリィへおいで下さい。エウリルさまを力ずくで連れ戻すことはしたくありません」
イルオマが囁くと、ナヴィは戻れないと呟いた。ランタンの明かりをかざしたアニタを見て、ナヴィはイルオマを振り切って尋ねた。
「アニタ、ガスクが危ない! ガスクはどこにいるんだ!」
「ええ? 何寝ぼけてんだい、あんた」
「夢じゃない。本当なんだ!」
血相を変えて、ナヴィが振り絞るように叫んだ。そうだ。驚いた表情のイルオマを見ると、ナヴィは眉根を寄せてイルオマの肩をつかんだ。
「君はゲリラの仲間をつけてきたと言ったな。なら、ガスクたちの居場所も知ってるはずだ。僕を案内してくれ」
ナヴィの切羽詰まった声に、イルオマはそれはできませんと頑に答えた。ドアのそばに置いてあった長いつっかえ棒を取ると、ナヴィはそれを構えて静かに言葉を吐き出した。
「頼む…今すぐだ」
「お前」
アニタの後ろからリーチャの声が響いた。振り向いたアニタを押しのけるように、リーチャがナヴィとイルオマに視線を向けた。
「やっぱりアスティのスパイ…」
「違う! リーチャ、ガスクが危ないんだ!」
ナヴィの言葉に血の気を失って、リーチャは裏口のドアのそばの壁にかかっていたマントを取った。慌ててアニタが止めるのも構わず、リーチャはナヴィの手をつかんで裏口のドアを開いた。
リーチャと共に薄着のまま外に飛び出したナヴィを止められず、イルオマは焦ってエウリルさまと名を呼びかけ、アニタに気づいて口をつぐんだ。行くんじゃないよ、リーチャ! 行っちゃ駄目だ! アニタの悲壮な声が夜の町に響いた。全く、任務外じゃないか。ブツブツと文句を言いながら外に出ると、闇の中、イルオマはナヴィとリーチャを追いかけた。
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