ガスクは朝からグウィナンやナッツ=マーラと出かけていて、ナヴィは奥の一室でベッドにうずくまっていた。自分のバカさ加減に愛想が尽きて、膝に額を乗せたまま食事も取らずに座り込んでいた。
リーチャを連れていくことが、リーチャを危険な目に合わせることだなんて思いもしなかった。
けれど、もしあそこでリーチャがゲリラの仲間だと分かれば、軍兵に殺されていたかもしれない。グウィナンが言ったことは本当だった。自分一人ならいい。でも、リーチャを巻き添えにすることは許さないと。
「ちゃんとメシ食えよ」
ちょいとドアが開いて、まだ手つかずのスープとパンを見てカイドが言った。グウィナンの言ったことなら気にしなくていいよ。そう言って、顔を上げたナヴィを見てカイドは笑った。
「リーチャだって男なんだ。覚悟の上で来たんだろうよ。あいつは本当にガスクが好きだからさ。お前が責任感じるようなことじゃない」
「でも…」
「グウィナンもナッツ=マーラもグステ村出身なんだ。やっぱ結束が固いっつうか、グウィナンはリーチャの面倒よく見てるしさ」
そう言って、カイドはメシ食えよと言い添えてまたドアを閉めた。すっかり冷めたスープを見ると、ナヴィはスプーンを手に取ってスープを一口飲んだ。涙がボタボタと落ちて、それを手の甲で拭いながらナヴィはスープを次々と口へ運んだ。
僕はもっと多くのことを知らなきゃいけない。
何も知らなかった自分を、こんなに恥ずかしいと思ったことはなかった。目を伏せてパンを千切ると、それを口に運んで涙と共に飲み込んだ。遊びなんかじゃないんだ。あの人たちは、生きていくために戦っている。
「エウリルさま」
ふいに声が響いた。驚いてナヴィが顔を上げると、窓の外にイルオマの姿が見えた。慌ててナヴィが窓を開けると、イルオマはよいしょと窓の仕切りを越えて部屋に入った。
「全く、無茶しないで下さいよ。エウリルさまが死んだら、ルイゼンさまに八つ裂きにされるのは私なんですよ」
怒ったように言ったイルオマに、ナヴィは目尻を拭いながらムッとして答えた。
「お前、途中でいなくなって一体どこへ行ってたんだ。王立軍の曹長なら内戦部隊を止めるとか抑えるとかできなかったのか」
「無茶言わないで下さい。私は諜報部員なんです。交戦なんて見るだけで足が震えますよ」
「役立たず」
「お言葉ですけどね」
そばに残っていたパンを見ると、イルオマはそれを取り上げてガツガツと食べた。こないだエウリルさまとはぐれてから、何も食べてないんです。そう言いながら残りのパンとスープを平らげると、イルオマはふうっと息をついてナヴィを見た。
「まずいですね。スーバルンゲリラはこんなもの食べてるんですか。気の毒に」
「全部食べてから言うなよ。リーチャがいる娼館はもっとひどいぞ」
呆れたようにナヴィが言うと、王宮はスーバルンへの不当な課税を考え直すべきですねとイルオマはきっぱり言い放った。
「お前もそう思うか」
ナヴィがベッドに座って尋ねると、開いた窓のそばに立ってイルオマは腕を組んだ。
「私は平民ですが、出身はサムゲナンなんです。グステ村からダッタン市へ来る途中でご覧になったでしょう。ラバス教の寺院が多くて、年配のスーバルン人のほとんどがあの辺りに住んでいるんですけど、作物も取れないし水もよくない、おまけに重税でみんな苦しんでいて、私を可愛がってくれたスーバルンのじいさんは、ほんのわずかな稼ぎのうちの半分以上をアストラウルの税務官に取り立てられてたんですよ」
「じゃあ、お前はどうして軍に入ったんだ? 国民議会へ行けばよかったのに」
「今の国民議会なんて、腑抜けた王族に取ってかわろうとする私利私欲の固まりのような輩ばかりですから。それなら軍へ入隊して高給ふんだくった方が」
「お前…僕の前でよくそれだけ王宮を罵倒できるな」
ベッドに座ったまま、膝に頬杖をついてナヴィが言った。ニヤリと笑って、イルオマは窓の桟に腰掛けた。変な奴だ。こんなアストラウル人もいるんだな。王宮には王族をほんの毛筋ほども悪く言う者はいなかったのに。
目を伏せたナヴィを見て、イルオマはしばらく黙り込んでから外へ視線を向けた。
「エウリルさま、お願いですからルイゼンさまの元へお戻り下さい。ハイヴェル卿はともかく、ルイゼンさまはエウリルさまをみすみす死なせるようなことはしないでしょう。このまま恐がって逃げ回るより、裁判を受けた方がスッキリするんじゃないですか」
イルオマの言葉に、ナヴィは息をひそめた。
「…裁判が恐いんじゃない。僕ですら、何が起こったのかよく分からないままだから。裁判に出ても説明できないからだ」
ナヴィの目はどこか悲しみに憂いていた。
その目に気づいて、イルオマがナヴィの顔を覗き込むように見た。
「…本当は、何があったんですか」
頑なに閉じたナヴィの口元を見て、イルオマはため息をついた。
あの夜、内戦部隊と戦う王子を見てますます無理に連れ戻せるとは思えなくなってしまった。逃げ足には自信があるけれど、この王子をふんじばってアストリィへ連れ戻すことは、自分一人ではできないだろう。
だからと言って、いつまでもぐずぐずしていては降格してしまう。応援を頼んだ方がいいのか。
「僕が王宮へ戻れば、ルイゼンに迷惑をかけると思う。ルイゼンはきっと自分の立場を悪くしてまで僕を庇おうとしてくれるだろう。でも、僕は今のままでは身の潔白を証明できないんだ。ルイゼンやハイヴェル卿にそう伝えてくれないか」
ナヴィが顔を上げて言うと、イルオマはため息をついた。
「とにかく、早く考え直して下さい。私にも妻子がいるんです。早くアストリィへ戻って落ち着かないと、子供が私の顔を知らないまま大きくなってしまいます。この人誰?なんて言われた日にゃあ…」
ふいに騒がしくなった表に気づいて、イルオマはあたふたと窓を跨いだ。ナヴィが窓際へ近づいてごめんと小さな声で呟くと、イルオマは窓から家の裏手へ降りてナヴィを見上げた。
「エウリルさま、また頭が冷えた頃に伺います。あなたを追う王立軍の指揮官は厄介な男です。私、軍兵の養成学校で彼とは同期だったんです。彼は情けというものを持たない。気をつけて下さい」
絶対に死なないで下さいよ。それだけ言って、イルオマはマントのフードをかぶって細い裏路地を静かに駆け出した。その背中を見送って深いため息をつくと、ナヴィは食器を乗せたトレイを持ってガスクたちを迎えるために部屋を出た。
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