アストラウル戦記

 夜が明ける前に騒乱は収まり、町は静けさを取り戻していた。
 追ってくる軍兵をまいてブッタリカの娼館に戻ったガスクは、自分で止血した肩の包帯を気にしながら裏口へ回った。ナッツ=マーラたちともここで落ち合うように伝えていた。ガスクがそっと中へ入ると、一階の部屋の開いたドアから娼婦や男娼たちがベッドを取り囲んでいるのが見えた。
「ガスク」
 その合間から、ナヴィの声が響いた。ここに戻っていたか。ホッとしてガスクが近づくと、娼婦たちが道を開けてガスクを通した。
 そこには顔色の悪いリーチャが、浅い息を繰り返しながら眠っていた。ナヴィは見たこともないアストラウル人といて、まるで知らない者のように見えた。グウィナンはおらず、カイドとナッツ=マーラがガスクに無事でよかったと声を潜めて話しかけた。それに小さく頷いて、ガスクはリーチャの顔を覗き込んだ。
 俺は、リーチャに何をしてやれたんだ。
 思わず痩せた手をつかむと、ガスクは頼りなげなリーチャの表情を食い入るように見つめた。
 結局、リーチャの親と同じようにリーチャも、自分たちの戦いの巻き添えにしてしまっただけじゃないのか。
「…ガスク、ナヴィは…?」
 リーチャがかすかに目を開いてガスクを見上げた。ガスクがここにいると答えると、リーチャはホッとしたようにわずかに笑みを見せた。
「ナヴィ…俺、お前をあいつらに売…た。ごめん…」
 ナヴィがベッドのそばにかがんでリーチャの頭に触れると、リーチャは目を閉じて呟いた。血の気の引いたリーチャの姿に、ナヴィは心細げに何度もリーチャの髪をなでた。まるでそうすればリーチャが回復すると思っているかのように、熱心に何度もなでているナヴィを横目で見ると、ガスクは握りしめたリーチャの手に額を押しつけた。
 死なないでくれ、死なないでほしい。
「俺、ガスクといるお前が嫌だった。俺は一緒に…られないのに、これから、ず…と、ガスクのそばにお前がいる所を見なきゃいけないと思うと、辛かった」
「リーチャ」
「ガスク…俺、お前のこと恨んでない。俺の親が死んだのは、お前のせいじゃない。誰のことも恨んでない。グウィナンのことも」
 わずかに力を込めて手を握ると、リーチャはガスクへと視線を向けた。ガスクの頬に伝わった涙を見て、嬉しそうに笑った。傷が痛んだのか苦しげに呼吸を荒げると、リーチャは顔を歪めてうわ言のように呟いた。
「…死にたく…い。死にたくないよおっ…ガスク…助けて」
 リーチャの呻き声が苦しげに喉元からもれた。どうにもできない無力な自分が悲しかった。リーチャ、もう喋るな。ガスクが言うと、リーチャはガスクを見つめた。
 見ていられない。ナヴィの表情を伺って、アサガはトアルとネリフィオを促してその場を離れた。エウリルさまのあんな顔を見たのは初めてだ。懸命にリーチャに声をかけ続けるナヴィの小柄な背中を思い出すと、アサガは二人にプティ市までの旅の支度と馬の手配を頼んだ。
 エウリルさまのことなら、何でも知っていたはずなのに。
 考えると胸が痛かった。生きていただけで喜ばねばならない所なのに、僕は何を考えてるんだ。小さく息をついてロビーの窓辺にあった椅子に腰掛けると、アサガは疲れたようにテーブルに頬杖をついた。本当は今すぐにでもプティ市へ連れていきたいのに。
「あのぉ…あんたさんはナヴィの知り合いかね」
 ふいに中年の小太りな男に声をかけられ、揉み手せんばかりの卑しげな男にアサガは不快そうに眉をひそめた。何ですか。アサガが答えると、こざっぱりとしたアサガの姿と腰に下げた立派な剣をジロジロと見て、ブッタリカは口を開いた。
「ナヴィを金貨三枚で預かるって約束だったんですがね、まだいただいてないもんで。申し訳ないが、ナヴィの世話には色々と金がかかったもんでね」
 …アストラウル人が、スーバルン人の娼婦や男娼を集めて売春宿か。
 胸がムカムカして、アサガは黙ったまま腰に下げていた小さな袋から金貨を五枚取り出し、テーブルの上に置いた。迷惑料だ。吐き捨てるように言うと、アサガは威圧するように立ち上がった。
「その代わり、あの青年がここにいたことは他言無用に」
「それは分かっておりまさぁ。わしにはナヴィがこんな所にいるような方じゃないって、初めから分かっておりました」
 そう言ってブッタリカは金貨をうやうやしく取り上げて数え、懐に入れてお辞儀をした。違法スレスレの売春宿と通報するような現体制への義理も、もう僕にはないか。部屋へ戻るブッタリカの丸い背中を眺めると、深いため息をついてアサガはもう一度椅子に座り込み、疲れた顔でナヴィがいる部屋のドアを見つめた。

(c)渡辺キリ