首都アストリィから西へ馬で五時間ほど走ると、オルスナとの国境を遮るように山がそびえ立っている。その麓にローレン所有の別荘があり、結婚する前は避暑のためにエウリルやユリアネを連れて何度も訪れた場所でもあった。
軽武装の従者を一人連れ、マントのフードをかぶったまま馬を走らせて別荘の敷地に入ると、ローレンは見張りをしていた初老の男にフードを脱いで顔を見せた。
「ローレンさま! よくぞご無事で…」
「知らせが届いた。教練のために近くまで来ているから、今なら会えると。本当か」
「はい、こちらにも急使が来られました」
「ありがとう。世話になるな」
ローレンが言うと、別荘番の男は涙ぐんでいいえと首を横に振った。ローレンと従者が馬に乗ったまま中へ入ると、別荘の脇で木切れを削って棒術に使う武器を作っていた男が気づいて立ち上がった。
「ローレンさま!」
左目を眼帯で覆い、黒い髪を無造作に後ろで一つに縛った小柄な男が嬉しそうに駆け寄ってきた。それに気づいて馬から降りると、ローレンは男を抱きとめて満面の笑みを浮かべた。
「アサガ! 本当に、本当に無事でよかった!」
「ローレンさまこそ、お元気そうで! 王宮から姿を消されたと聞いた時は、胸が潰れるかと思いました」
王宮にいた時よりも地味な仕立ての服を着たアサガは幾分痩せたものの、屈託のない笑顔も声の調子も以前のままだった。ホッとしてローレンが本当によかったとアサガを抱きしめると、アサガもローレンをギュッと抱き返してから手を離した。
「ローレンさま、ユリアネも今朝からずっと待ってるんですよ」
「そうか。案内してくれ。アサガ、目は大丈夫なのか」
歩き出しながらローレンが尋ねると、アサガは表に出ている方の目でローレンを見上げた。返事のないアサガを見て、ローレンが足を止めた。玄関のドアを開けると、アサガはバツが悪そうに笑って答えた。
「もう駄目だそうです。でも、片方は見えるから大丈夫ですよ」
アサガの顔の眼帯はどこか痛々しく、呆然とアサガを見てローレンは震える手でアサガの頬に触れた。なぜもっと早く言わなかった。ローレンが呟くと、アサガはローレンを見上げて目を細めた。
「僕の片目なんて、ローレンさまやエウリルさまの苦しみに比べれば何てことありません」
「別の医者をすぐ手配しよう。ひょっとしたら治るかも…」
「いえ、僕のことにお金や手間をかけるのはよして下さい。もう大分慣れましたし。ローレンさま、行きましょう。ユリアネも待ってますから」
アサガが言うと、ローレンはまだ戸惑うように、でも…と囁いてアサガの頬をなでた。ご自分が大変な時に。その苦しげな表情を見上げると、言葉が見つからずにアサガはローレンから視線をそらした。
別荘の中は以前と変わりなく、隅々まで綺麗に掃除されていた。二階へ上がってすぐの部屋のドアをノックすると、アサガは返事を待たずにドアを開けた。
「ユリアネ! ローレンさまがいらっしゃったよ!」
窓際に置かれたベッドの上で身を起こして、髪を耳元で束ねたユリアネが開け放した窓の外を眺めていた。部屋は広く、王宮よりもずっと簡素な作りになっていた。アサガの声に気づいて振り向くと、ユリアネは表情を輝かせてローレンを見上げた。
「ユリアネ!」
ベッドへ近づいて、ローレンは覆いかぶさるようにユリアネを抱きしめた。ローレン、無事でよかった。華奢な腕を背中に回して、ユリアネがその耳元で囁いた。何度も何度もその背をさすり、確かめるように抱きしめてローレンはユリアネの髪に頬を埋めた。
「痛いわ、ローレン」
強く抱きしめたローレンの腕を叩いて、ユリアネは苦笑しながら言った。あ、ごめん。ローレンが慌てて手を離すと、ユリアネはあいたたと脇腹を押さえながらローレンの胸にこめかみを押しつけた。
「まだ傷口が閉じてないのよ」
「起き上がっちゃ駄目だって言われてるのに、ユリアネはジッとしてないんだよ」
ドアのそばにいたアサガの言葉に、ローレンが怒ったようにユリアネを見た。だって、もう大分いいのよ。そう言ってバツが悪そうに笑みを唇に浮かべたユリアネの体を支えると、ベッドへ寝かせてローレンは毛布をその首元までかけた。
「二人とも、本当に無事でよかったよ。ここへ身を寄せていると分かっていたから心配はしていなかったけど、やっぱりこの目で確かめるまでは…」
「ローレンさまが助けて下さったおかげです。もしあの時、ローレンさまの手の者ではなく王宮の衛兵が来ていたら。僕達はもう生きてはいませんから」
ローレンがベッドサイドに腰掛けると、アサガは部屋の端に置いてあった椅子をベッドの脇へ置いてそこに座った。
「シャンドランとフリレーテが話していたのを見た時から、少し気になってね。ずっとフリレーテを見張らせていたんだ。何度か見失ったと報告があったから、ひょっとしたら気づかれているかもしれないと思っていたけれど、そういう訳じゃなかったみたいだ…」
眉をひそめてローレンが言うと、ふいにドアをノックする音が響いた。アサガがドアを開けると、そこには別荘番の男が立っていた。
「ローレンさま、ルイゼンさまがお着きです。こちらへお通ししても?」
「ああ、頼むよ」
「お茶の用意をいたしましょうか」
「いや、呼ぶまで下にいてくれ」
ローレンの言葉に、男はにこやかに分かりましたと答えて出ていった。しばらくしてもう一度ノックと共にドアが開き、軍服姿のルイゼンが口元に軽く笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
「ルイゼン…来てくれたんだな」
ローレンが立ち上がると、はいと短く答えてルイゼンはローレンの右手を両手で握りしめた。アサガ、ユリアネ、無事でよかった。そう言って二人を抱きしめると、ルイゼンは帯剣を解いて剣をドアのそばに立てかけた。
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