アストラウル戦記

 ダッタン市の下町にあるラバス教の小さな寺院は、首都がダッタン市にあった頃にはもうすでに古びていた。今でもスーバルン人が寺院を訪れ、日曜日には必ず礼拝も行われていた。
 その寺院の僧侶の一人であるグウィナンは、幼子だった頃からジンカと共に寺院で暮らしていた。一番古い記憶は、父に連れられて寺院を見上げた後、何かを買ってくると言ってそのまま行ってしまった父の背中だった。
 父親はアストラウル人だった。
 そのことを知っているのは、今ではガスクとナッツ=マーラ、それにリーチャしかいなかった。グステ村で母親と数年暮らした後、ダッタン市に来たのだとジンカから聞かされたグウィナンは、ガスクたちよりもグステ村への望郷の念が薄かった。
 いつものようにろうそくの明かりを灯すと、他の僧侶たちと夕方の礼拝を済ませてグウィナンは自室に戻ろうと振り向いた。そこにはフードをかぶったままのガスクが立っていて、グウィナンは苦笑しながらガスクに近づいた。
「珍しいな。お前がここに来るのは」
「俺だって、たまには神仏に拝みたくなることもあるさ」
「僧侶としては嬉しい言葉だが…何かあったのか」
 グウィナンが尋ねると、ガスクは目を伏せて答えた。
「明日、ナヴィをオルスナへ連れていくと言ったな。俺が付き添ってやりたい」
 言うと思った。ムッとした表情でガスクを見ると、グウィナンは聖堂に並ぶベンチを勧めた。グウィナンと並んで座ると、ガスクは長い足を投げ出して高い天井を見上げた。
「お袋の言い付けだから、という訳でもないけど、何度も危ない所を切り抜けてきたからかな。やっぱり無事にオルスナへ入るまで見届けてやりたいんだ…」
「死にかけのネコでも拾って育てたような心境か」
 呆れたように言ったグウィナンを見て、ガスクは黙り込んだ。
 ずっと、あいつの体の感触が残っている。
 ナッツ=マーラやグウィナンに対する時とは違う、何か。
「だからオルスナへ行かせるんだ。それはナッツ=マーラも同意見だ。お前が仲間じゃなければ好きにするがいい。でもな、俺たちはお前を掲げて戦うと決めたんだ」
「…」
 ジンカが死んだ後、スーバルンゲリラは人口の減少したスーバルン人と共にバラバラに散り終わろうとしていた。
 それを必死に繋ぎ止めていたグウィナンがグステ村にいたガスクの元を訪れるまで、スーバルン人の間には絶望感が漂い、抑圧され、支配されることを受け入れようとしていた。
「迷うな。お前が迷えば誰かが死ぬ」
 それだけ言って、グウィナンは立ち上がった。同じように立ち上がったガスクを、グウィナンはいつものように冷めた目で見つめた。グウィナンが迷ったり悩んだりする所を見たことがなかった。まるで機械のように、冷静でいつも強かった。
 そんな風になりたいと、思った。
 ずっと迷い続けてきた俺にグウィナンが確信を与えてくれたように。
「分かったよ」
 低い声で答えると、ガスクは外へ出るドアに向かって歩き出した。広い聖堂にガスクの履くブーツの音がコツンコツンと響いた。その広い背中を見て、グウィナンはガスクには気づかれないほどの小さな息を吐いた。

(c)渡辺キリ