アストラウル戦記

 ナヴィ…ナヴィ、俺はお前を裏切る。
 もう見たくない。ガスクのそばにいられるだけの強さを持ったお前のことを。
 一番近くの個人医院へ駆け込んで、断る医者を無理矢理引っ張って連れてくると、リーチャは手に持った白い紙をグンナのいる宿屋の主人に黙ったまま渡してから娼館に戻った。
「全く、娼婦など診ても金が払える訳がない。私だって慈善事業やってるんじゃないんだ。どうせ性病か栄養失調だろう」
 怒りながら帰ろうとする医者の背中を押して娼館の中へ押し込むと、リーチャは連れてきたぞ!と大声で怒鳴った。二階から娼婦が顔を出し、リーチャが医者連れてきたよとアニタの部屋の中に向かって叫んだ。マントのフードを脱いで医者を引っ張って上がると、そんなリーチャに観念したのか医者は診療鞄を持ってアニタの部屋に入った。
「ナヴィはまだ?」
 強張った表情でリーチャが尋ねた。他の娼婦たちはみな自分の部屋に戻っていて、そこにはブッタリカとアニタ、それにアニタと仲のよい娼婦が一人しかいなかった。アニタは変わらず苦しげに腹を押さえたまま呻いていて、ブッタリカが険しい表情で振り向いた。
「リーチャ、医者なんか呼ぶんじゃない。ここには払う金はねえぞ」
 その言葉にムッとして、リーチャはアニタが死んでもいいっていうのかよと答えた。噛みつくリーチャに鼻を鳴らすと、ブッタリカはアニタを見下ろした。
「娼婦が病気になるたんびに医者に見せてたら、商売になんねえんだ。大して稼げもしねえのに、病気になんぞなる方が悪いんだよ」
「バカなこと言ってないで、どいとくれ。病人の前で何だ、全く。衛生管理もなっとらん。だからスーバルンの娼館なんて来るのは嫌だったんだ。これでは病気にならん方がおかしいぐらいだ」
 不機嫌な表情を隠しもせずに言うと、医者は鞄を開けてアニタの服を脱がせた。一人手伝え。そう言った医者に慌てて娼婦が付き添った。関係ないのはしばらく出てってくれ。医者の言葉に、ブッタリカとリーチャは部屋から出てドアを閉めた。
 男娼も娼婦も、スーバルン人だというだけで最低の扱いを受ける。
 ここへ来てからの十年で、身の奥の奥まで思い知らされていたことだった。最底辺。いや、毎日一食でも食事を摂れるだけまだマシだ。自分の部屋へ戻っていくブッタリカの背中を見据えると、リーチャはガンと壁を蹴り飛ばした。心の奥底にしまい込んでいた憎悪が吹き出して身を包んだ。
「リーチャ!」
 ふいに一階から声が響いた。
 リーチャが階段から見下ろすと、急いで来たのか真っ赤な顔をしたナヴィがマントを脱ぎながら階段を駆け上がってきた。その後ろにはグウィナンとナザナの姿が見えて、リーチャはビクンと震えてナヴィたちから目をそらした。
「リーチャ…アニタは」
 リーチャの手を握りしめると、切羽詰まったような表情でナヴィが呟いた。本当は俺一人で来るつもりだったんだが。苦い顔をしてそう言うと、グウィナンはリーチャの肩を叩いて大丈夫かと尋ねた。
「い、今、医者呼んで診てもらってるとこ…」
 リーチャの言葉に、ナヴィとナザナがアニタの部屋に入っていった。バカ、呼ばれたからって本当に来るな。口元を押さえて顔を背けたリーチャを見て、グウィナンがその顔を覗き込んだ。
「おい、リーチャ。お前も気分が悪いのか」
「…」
 リーチャの顔色は悪かった。グウィナンがリーチャの顎から首筋に触れて、熱はないなとホッとしたように言った。その表情を見上げると、リーチャはグウィナンの胸に頬を埋めて目をギュッと閉じた。
「リーチャ…?」
 心の中では、何度も逃げろと叫んでいた。けれど声が出なかった。ナヴィ、お前を捕らえにアストラウル兵が来るんだ。それは、俺が密告したんだ。
 小刻みに震えるリーチャを見て眉を寄せると、ふいにグウィナンは手を伸ばしてリーチャの小柄な体を抱きしめた。
 強く。
 グウィナンの体は温かかった。リーチャの背中を大きな手で何度もさすった。大丈夫だ、リーチャ。アニタは助かる。低い声で落ち着かせるようにゆっくりと呟くグウィナンを見上げると、リーチャはその肩に両腕を回して抱きしめ返した。
 違う。
 グウィナン、違うんだ。
「リーチャ、すまない。俺たちが新しい国を作るまで、それまで我慢してくれ…」
 グウィナンの声は震えていた。驚いてリーチャが顔を上げるとグウィナンはリーチャの顔をジッと見つめ返して、まるで泣き出しそうな顔をしていた。これまでグウィナンのそんな表情を見たことは一度もなかった。今度はリーチャがグウィナンを支えるように抱きしめた。互いを支え合うように。
 ナザナからアニタの発病を聞いた時、グウィナンの頭に真っ先に浮かんだのはリーチャのことだった。
 リーチャだって、いつ同じような状況になるか分からない。劣悪な環境で、毎日幾人もの客を取らされている。これまでは健康状態のよい軍人を相手にすることが多く、死に至るような病にもかからずに済んでいるが、それはただ運がよかっただけのこと。
 もしリーチャが。
 若くして死んだ母親の、ほんのわずかに残っていた記憶が重なった。後でグステ村の住人に知らされた。俺の母親は、娼婦だった。俺を生んで使い物にならなくなったと娼館の主からも捨てられ、ボロボロの体と赤ん坊の俺を抱えてやっとの思いで故郷の村へ帰ったのだ。
「グウィナン…?」
 リーチャの体はすぐそこにあって、グウィナンはただ顔をしかめてリーチャを抱きしめた。何度も何度もその髪に手をやり、なでては梳いてそっと手を離した。リーチャ、お前をここから連れ出すことができれば。俺がもしゲリラでなければ…ラバス教の僧侶でなければ。
 いや。リーチャの肩をつかむと、グウィナンは小さく息を吐いた。
 ラバスに拾われなければ、俺はとっくに死んでいた。ラバスだけが、俺の身も心も誇り高く支え続けている。
「俺だけが来るつもりだったんだが、ナヴィがどうしても自分で来ると言って聞かなかった。金を持っているのはあいつだしな。この周りにも軍が待ち伏せしている様子はなかったし、どうせ明日にはダッタン市を発たなきゃいけないからと思って、好きにさせた」
「…え?」
 グウィナンをジッと見上げて、リーチャは尋ね返した。
「ダッタンを発つってどういうこと?」
「ナヴィをここに連れてきた時、ガスクが言わなかったか。パンネルに頼まれてナヴィをオルスナへ逃がすんだ。そうすれば、ナヴィを追う奴らが諦めるかオルスナまで追うか判断するまでの時間が稼げる。だからナヴィも、リーチャとはもう二度と会えないかもしれないと言って」
「明日、オルスナへ…それをガスクは」
「承知だ。承知させるさ」
 グウィナンが答えると、リーチャはアニタの部屋のドアを思いきり開いた。バタンと大きな音がして、中にいた全員が振り向いた。アニタのベッドのサイドテーブルの上には金貨が何枚か置かれていて、ナヴィが持ってきたものだと一目で分かった。
 ナヴィ、お前は本当にバカだ。
 何でほんの少しいただけの場所の、ほんの少し話しただけの奴のために、そんな大金を払えるんだ。見張られているかもしれないここに、追われているお前がどうして飛び込んで来られるんだ。
「ナヴィ…逃げろ!」
 リーチャの声にナヴィが立ち上がった。部屋の外にいたグウィナンが低い声で、どういうことだと尋ねた。その言葉にリーチャが振り向くと同時に、一階の玄関のドアが開いて武装した軍兵が何人も連なって侵入してきた。緊張した表情でグウィナンが剣の柄に手をかけると、その脇をすり抜けてリーチャが吹き抜けの手すりをつかんで身を乗り出した。

(c)渡辺キリ