アストラウル戦記

「やめてくれ、間違いなんだ! ナヴィはここにはいない!!」
 悲鳴のような、泣き声にも似たリーチャの声が響いた。
 驚いたナヴィが部屋から出ると、階段を降りようとするリーチャが見えた。グウィナン! ナヴィが叫ぶと、グウィナンはわずかに振り向いてお前は隠れてろと厳しい表情で答え、片手でマントを脱ぎ捨てた。
「どけ!」
 先頭にいた軍兵が、リーチャを押しのけた。大きなテーブルにぶつかって倒れ込むとリーチャはすぐに立ち上がって、先頭で階段を探す軍兵の腰に取りすがった。間違いなんだよ、帰ってくれ! 必死で言いつのるリーチャが顔を上げると、軍兵たちの向こうにグンナの冷たい目があった。
「グンナ!」
 リーチャの声がフロアに響いて、階段の途中から一階に飛び下りたグウィナンが一瞬、強張るように動きを止めた。
 振り向いたリーチャは、怯えた目をしていた。
 グウィナンと目が合うと、リーチャはわずかに一度だけ首を横に振った。グウィナン。唇がそう象ってから閉じた。
 怯えているのは、俺にか。
 アストラウル兵ではなく、俺に怯えているのか。
 リーチャ、お前が。
「リーチャ、危ない!」
 二階の手すりをつかんで、ナヴィが真っ赤な顔で身を乗り出すように叫んだ。万が一の時のためにとナッツ=マーラから借りた小ぶりの剣を抜くと、階段を駆け降りてナヴィは目を見張った。
 それはまるで、抱きしめているようにも見えた。
 何か起こったのかも分からず、ナヴィは立ち尽くした。一番前で剣を振りかぶる兵士ごと、グウィナンの剣は振り向いたリーチャの額から背までを深く斜めに切り裂いていた。あ…。思わずその場に座り込みそうになって、ナヴィは階段の手すりを強くつかんだ。一気に吐き気が込み上げた。
 グウィナンの剣は、綺麗な放物線を描いていた。
「…ィナン」
 リーチャの体が痙攣するように震えた。兵士と共にリーチャの小さな体が、まるで人形のように大きな音をたてて倒れた。リーチャ! 階段を駆け降り真っ青になって駆け寄ろうとしたナヴィの腕を反射的につかんで、グウィナンは下がってろと囁いた。
「どうして…何でだよ、グウィナン! 何でリーチャを!!」
 ナヴィの目から涙が盛り上がって、一筋溢れた。驚いたグンナの表情がよぎった。リーチャ!とナザナが叫ぶ声が後ろで響いた。剣の血を払って、グウィナンは黙ったままアストラウル兵をにらみつけた。
「お前はゲリラの仲間か。こいつをスパイだとでも思ったか」
 グンナの冷たい声が響いて、グウィナンは剣を構えたまま唇を引き結んだ。
「リーチャがお前と通じていたのは、確かだ」
 息をのんで、ナヴィが倒れ込んだリーチャを見た。震えている自分の体にも気づかなかった。どうしてリーチャが。そればかり頭を巡った。
 ひらりとグウィナンの剣が動いた。後ろにいたナヴィからも、グウィナンは激情に任せて滅茶苦茶に剣を振っているように見えた。倒れたまま動かなくなったリーチャの体を引きずると、ナヴィは階段の脇で懸命に目を閉じたままのリーチャの名前を何度も呼んだ。
「ナヴィ!」
 階段を半分ほどまで降りてきたナザナがナヴィを呼んだ。危ないから来るな!と怒鳴ってから、ナヴィは次々と溢れる血を止めようと震える手でリーチャの額を押さえた。
 リーチャ…何でお前がこんな目に合わなきゃいけないんだ。
「うわあああああ!」
 喉元から声が爆発するように溢れた。ナヴィの声に、グウィナンに向かっていた兵士たちが一瞬、動きを止めた。その中でも剣を振る手を止めずにまるで鬼神のように兵士たちに切り掛かるグウィナンを見て、ナヴィは立ち上がった。
「…!」
 振り向いてナヴィの剣を受けると、勢いで剣が弾かれた。視界にナヴィの大きな目がチラリと映った。クッと声をもらしてナヴィの速い剣の軌道を受けると、グウィナンはナヴィの剣を自分の持つ剣の根元でギリギリと押さえてふいに足を振り上げた。
「っ!」
 それはナヴィの腹に当たって、体の軽いナヴィは木の床にドッと倒れ込んだ。はあはあと肩で大きく息を繰り返すグウィナンの目からは、血に混じる涙が幾筋も流れていた。それでも衝動を止められずに立ち上がろうとして、ナヴィはグウィナンの肩ごしに兵士たちがざわめくのを見て目を見開いた。
「ナヴィ! グウィナン! 無事か!!」
 娼館の外からナッツ=マーラの声が響いた。娼館の中にいた兵士がグンナの命令で外へ出ていった。それを見て自分も外に出ようと、切りつけられて血が溢れる手首を布で巻きグウィナンが駆け出すと、ナヴィが立ち上がって待てよ!と怒鳴った。振り向いたグウィナンを見上げると、大きく息をついてナヴィは剣の柄を両手で握りしめた。
「なぜリーチャを切った。同じスーバルンの仲間じゃないのか」
 その声は低く、静かで怒りに満ちていた。その目をジッと見つめると、グウィナンは答えた。
「アスティには関係ない」
「グウィナン!」
「殺したければ殺すがいい」
 感情を押し殺した声でそれだけ言うと、グウィナンは娼館の外へ出ていった。ナヴィが振り向くと、アニタを診察に来た医者がリーチャを診ていた。お願いだから、生きていて。生きていてくれ。祈るように言葉を繰り返すと、ナヴィは剣を持ち直して娼館の外へ出た。

(c)渡辺キリ