夜は恐いほど静かで、ナヴィは与えられた部屋のベッドで何度も寝返りを打った。イルオマはいつの間にか誰にも気づかれずにどこかへ行っていて、優秀な諜報部員というのは本当かもしれないと考えながら、ナヴィは目を開いて床で毛布にくるまっているアサガの頭を眺めた。
アサガと再会できたことは、心の底から嬉しかった。けれど、アサガの顔の眼帯が以前とは違う現実を否応なくナヴィの前に突きつけた。戻れる訳がない。もう帰る場所はない。
そんなことはとっくに分かっていたはずなのに。
ふいに部屋の外でギシリと床が鳴った。誰かがナヴィたちの部屋の前をそっと通り過ぎていった。誰だろう、こんな時間に。首をもたげて怪訝そうに眉を寄せると、ナヴィはベッドから降りて部屋のドアを開けた。
「…ガスク?」
真っ暗な廊下で大きな背中が振り向いた。起こしたか。低い声で囁いたガスクに首を横に振ってみせると、ナヴィはどこに行くのと尋ねた。
「見張り」
「ガスクが? リーダーなのに」
「悪いか。ウチは人手不足なんだ」
ガスクが答えると、ナヴィは首を横に振って小さく笑った。
「グウィナンと話していたんだが、煮詰まってな。今はナッツ=マーラが説得してる」
ボソリとガスクが呟いた。その顔は少し疲れていた。僕も行く。そう言ったナヴィに勝手にしろと素っ気なく答えて、ガスクは階段を下りた。
ガスクの手には、いつも持っている大きな剣が握りしめられていた。ガスクの短い髪が揺れて、後ろから階段を下りながらナヴィはぼんやりとそれを眺めた。裏口から出ると外は暖かくて、すでに見張りをしていた同志が振り向いてガスクに笑いかけた。
「遅いな」
「悪い、腹減ったろ。寺院がメシ用意してくれてるから行ってくれ」
「ああ。もう腹ぺこだよ。今んとこ異常なしだ…何だ、チビも一緒か」
ガスクの後ろに立っていたナヴィに気づいてそう言うと、男は疲れたと言いながら寺院に入っていった。チビじゃないよ。怒ったようにナヴィが唇を尖らせると、ガスクは笑った。
「そりゃ、俺たちの中にいたらお前はチビに見えるだろうよ」
「僕と同じ年だけどアサガの方が背は低いし、リーチャだって」
言いかけて、ナヴィは黙り込んだ。
夜の町はとても静かで、どこか遠くで犬が鳴いている声が聞こえた。座ろう。低い声でそう呟いて、ガスクは正面が見えるように寺院の壁に作られた装飾の出っ張りに腰かけた。ナヴィも隣に座ると、二人でしばらく黙ったまま周囲に目をこらした。
リーチャのことを考えながら。
今にも涙が溢れそうで、ナヴィは唾を飲み込んで目を伏せた。なぜ、と考えても答えが出ないこともある。それは分かってる。分かってるけど。
いろんなことを聞きたいのに、話したいのに言葉が喉に詰まって出てこない。
「…ありがとう」
ふいに闇に低い声が広がった。ナヴィがガスクを見上げると、ガスクは大剣を抱きかかえたまま正面を見据えていた。その顔にはいくつもの古傷に混じって、新しい傷が増えていた。ナヴィが黙っていると、ガスクはチラリとナヴィを見た。
「リーチャのこと。グウィナンから聞いた。お前が介抱してくれたそうだな」
「…グウィナンが?」
ナヴィが尋ね返すと、ガスクは頷いた。
「グウィナンが娼館にお前を訪ねていった時も、リーチャは随分楽しそうにしていたと言っていた。俺たちはリーチャを助けてやることはできなかったが、お前にはできたのかもしれない…本当は、守ってやりたかった。俺たちの手であそこから出してやりたかった」
吐き出すように言葉が溢れた。けれど、何もできなかった。そう言ったガスクの腕に顔を押しつけて、ナヴィが呻き声をもらした。肩が震えて、驚いたガスクの腕をつかんでナヴィは声を押し殺して泣いた。
「ナヴィ」
後ろから腕を回してその小さな頭を抱きしめると、ガスクはしっかりとナヴィを支えた。腕の中で息づいている小さな体が、何度もリーチャと小さく名を呼んでいた。闇の中ではこの手が白いことも分からない。はしばみ色の目も栗色の髪も分からない。
それを俺は、ナヴィと出会いここへ来るまでの間に知った。
…リーチャのために、お前は泣いてくれるのか。
しばらくの間、ナヴィを抱きしめたままガスクは闇に目を凝らした。こいつの涙もこれが最後かもしれない。ぼんやりと考えながら、ナヴィの短くなった髪を何度もなでた。次第に小さくなっていく嗚咽を肌で感じ取りながら、ガスクは前髪の上からその額に唇を押しつけた。もう何も失いたくない。
「ガスク…肩」
消えそうなほど弱々しい声が響いて、ガスクは腕の力を緩めてナヴィの顔を覗き込んだ。ナヴィはガスクの首元から覗く肩に巻かれた白い包帯を見ていた。ああ、これか。ガスクがナヴィから手を離して肩を押さえると、ナヴィはガスクを見上げて口を開いた。
「大丈夫か。これ、あの時の怪我だろ」
心配げに言ったナヴィに苦笑して、ガスクはナヴィから目をそらした。剣で貫かれた肩の傷は、ナッツ=マーラが荒っぽく縫ったせいでズキズキと熱っぽかった。
「思い出すと痛えな」
顔をしかめてガスクが言うと、ナヴィは思わず笑った。ごめん。慌てて言ったナヴィをムッとしながら見ると、ガスクは大丈夫だと言葉少なに答えた。二人きりの夜はまるでダッタン市へ来る前のようで、またしばらく黙り込んだ後、ガスクは目を細めて口を開いた。
「お前はもう部屋に戻って寝な。俺はもう少し見張り続けるから」
「いいよ。代わりが来るまで付き合うよ」
「いいって。疲れてんだろ。寝ぼけた顔されるとこっちまで眠くなる」
ガスクの言葉に、ナヴィは寝ぼけた顔なんてしてないよとムッとして立ち上がった。また明日。そう付け加えてガスクを見ると、ナヴィはガスクの腕をキュッとつかんでからまた寺院の中へ戻っていった。
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