アストラウル戦記

 夜明け頃、ダッタン市の中心にあるアストラウル王立軍の駐屯地の一角に、まだ明かりのついた部屋があった。ゲリラとの戦いで傷ついた兵士が担ぎ込まれるなどしばらく続いていた喧騒は今はやんでいて、簡易椅子に腰かけたまま古い机に肘をついて、グンナはジッと目を閉じていた。
 頭や肩から胸にかけて、そして手首にまで真新しい包帯が巻かれていた。薬と手当のおかげで痛みは感じなかった。怪我のために出した熱も今は引いて、表向きの任務である対スーバルンゲリラ内戦部隊の援軍作戦の報告書を作っている途中だった。
 少人数のゲリラだからと油断したのだろうか。指揮官としての自分の判断や作戦に甘さがなかったかを丹念に思い返しながら、グンナは眉をひそめて長い息を吐き出した。思った以上にゲリラたちは結束していた。一度は崩れかけたものを立て直した。あれがなければ、今頃は王子を捕らえることもできていたはず。
 突然現れたアストラウル人は、誰だったのか。
 あの後、王子やゲリラはどこへ消えたのか。
 それを調べるために人をやることもできない。負傷兵が多く、使える人間が足りなさ過ぎる。一度アストリィへ戻るか、使者をやってフリレーテさまに援軍を要請した方がいいのか。
 考えながら目を開くと、グンナは突然ガタンと椅子の音を立てて振り向いた。
 そこにはいつの間にか音もなく男が立っていた。
「あなたが王宮衛兵軍に配属される前」
 突然話し出した男の声はかすれていて、まるで夢でも見ているかのようでグンナは思わず後ずさった。男は自分と同じ軍服を着て、わずかに笑みを浮かべていた。グンナがようやく男の顔に思い当たると、男は手に護身用のナイフを持ったまま狭い部屋で一歩近づき、グンナの目の前に立った。
「サムゲナンに派遣された一か月の間に、スーバルンの老人を一人殺した。それを突き止めるのに三年もかかりました。諜報部へ配属されてからは早かったですけど。まさか、軍の養成学校で一緒だったあなただとは思いませんでした」
「イルオマ、お前なぜ、どこから…」
 その冷たい目をジッと見つめると、フッと笑みを浮かべてイルオマは口を開いた。
「これまであなたが踏みにじってきたもののおかげで、平民出にも関わらず、あなたは順調に今の地位まで登り詰めてきた。他人を犠牲にして、手段を選ばず手を汚してでも任務を遂行する、それだけがあなたの精神を支えてきたんでしょう」
「…黙れ」
「家族も愛するものもなく、ただ自分のためだけにあなたは何者かに評価されたいと願ってきた」
「黙れと言っている。聞こえないのか」
「でも、それも終わりです。あなたは失敗した。あの王子やゲリラたちに散々コケにされている所を見ましたよ。彼らはもう古い体制を脱ぎ捨て、新しい世界へ進みはじめている。お前たちはもう終わりだ」
「イルオマ、きさま…」
「ざまあみろ!」
 イルオマが声を荒げると同時に、グンナがイルオマの肩をつかんで壁にダンと押しつけた。しばらくもみ合いになった後、ふいにイルオマが思いきりグンナの怪我をしている額に頭突きを食らわせ、グンナは呻き声と共にイルオマから手を離した。グンナの使っていた小さな机に飛び乗ってイルオマが窓を開けると、暖かく強い風が部屋に吹き込んで、羽ペンをさした壺がコトンと倒れた。
「お前の間抜けヅラを見たら、ほんの少し気が晴れた。俺は今から王立軍を除隊する。あいつらについていくよ。上へ報告できるものならすればいい」
 ニヤリと笑って、イルオマは首元についた階級章を引きちぎってグンナに投げつけた。こんなことをしてただで済むと思っているのか! 怒りに満ちた震える声でグンナが怒鳴ると、騒ぎに気づいた王立軍兵が剣を持って部屋に飛び込んできた。
「ただで済まないのはお前たちの方だ。グンナ、きさまをここでは殺さない。ここで殺せば俺は軍兵殺しで追われることになるからな」
「な…」
「きさまがサムゲナンで殺したスーバルン人は、私の妻の父だ。新しい世界はもう始まっている」
 それだけ言って、イルオマは二階の窓から外へ飛び下りた。誰かその男を捕まえろ! 窓から身を乗り出して、王立軍兵が外にいた見張りに向かって怒鳴った。あっという間に姿を消したイルオマを闇の中で目を凝らして探すと、グンナは混乱する感情を必死で押さえ込んだ。
 俺が殺したスーバルンの老人。
 誰も見ていない夕暮れ時だった。哀れみを誘おうと、俺に向かって手を伸ばしていた。その瞬間、心のどこかからどす黒い感情が吹き出した。その姿が一瞬、俺自身に見えて。
 気づいたら、そばにあった椅子で何度も殴りつけていた。
 老人は初めの一発ですでに即死していた。
 哀れみを誘おうと?
 それが俺の本当の姿だと…?
「バカな。王立軍の兵士がスーバルン人の妻を持つなど考えられない」
 グンナの隣で王立軍兵が呆然と呟いた。新しい世界とは、何だ。強く窓枠を握りしめて、闇の中、イルオマの姿を探しながらグンナは言葉を頭の中で何度も繰り返した。

(c)渡辺キリ