アストラウル戦記

 軍服以外の格好で外へ出るのは久しぶりだった。どこかぎこちない仕草で歩くグンナを横目で見ると、フリレーテは堪えきれずに吹き出して笑った。
「何ですか」
 厳しい表情のまま尋ねたグンナの顔をひょいと覗き込んで、フリレーテは似合うなと言った。羽織ったマントの下は剣と胸当てで軽武装していたけれど、いつも履いている軍支給のブーツや制服は駐屯地の自分の部屋へ置いてきていた。
 規律違反で逮捕されるかもしれない。
 考えながら、まるでピクニックへでも行くかのように楽しそうに歩くフリレーテの後をついていった。駐屯地の敷地からは、誰にも咎められずにすんなりと出られた。まるで二人だけ別の世界にいるかのようだった。
 アストラウル王立軍以外の世界。
 考えるとどこか心細いような、なのに心のどこかがほんのりと暖かいような奇妙な感覚に襲われた。俺はこの方に何を期待しているんだ。フリレーテの楽しげな表情を見るたびに、グンナは自分を戒めた。
 この方はいずれ王宮へ帰る身。
 王太子の愛人として…いや、それでなくても名門アリアドネラ家の次代当主なのだから。
「なぜ」
 小雨がパラつき出した市場では、オルスナ人やアストラウル人の商人たちが商品を片づけはじめていた。振り向いたフリレーテにグンナが口ごもると、フリレーテは笑いながら尋ね返した。
「何?」
「フリレーテさま、なぜそんなに楽しそうなのです?」
 グンナの言葉に、楽しそう?とまた尋ね返してフリレーテは前を向いて歩き出した。その後を守るようについて歩くグンナに、フリレーテはしばらくして答えた。
「楽しい…そうだな、楽しいよ。こんなにも気持ちが軽くなったのは久しぶりだ」
「ダッタンがお好きなんですか。プティの方が落ち着いていて住みやすいでしょう」
 グンナが言うと、フリレーテは目を細めてダッタンの町を眺めた。この町は嫌いじゃない。『フリレーテ』の実の両親が住んでいる町。けれど。
「生きているからだよ、グンナ。今も生きているからだ」
 フリレーテの声は力に満ちていた。見開いた目はキラキラと光って見えた。
 抱きしめて、誰も知らないどこかへ連れていきたい。絶望の中から見つからないと分かっている希望を探すような空しさに身を浸すあなたを連れ去りたい。
 バカなことを。俺自身、何も手にしていないのに。
 ポツリポツリと雨が頬に当たって、グンナはフリレーテのマントのフードをふわりとその頭にかぶらせた。空気に雨の匂いが混じって、フリレーテがスンと空気を吸うとグンナはその唇に指でそっと触れた。ポツポツポツと雨が次第に降り出して、グンナが雨宿りをと言った時、ふいにフリレーテが吸い寄せられるように南へと伸びる大通りを見た。
 人々はサアッと激しくなった雨を避けるように、次々と店の軒先へと入っていった。波が引くように人がいなくなった大通りの真ん中に、まず背の高いスーバルン人が見えた。そして、小柄なアストラウル人が。
 背筋に快感にも似た不思議な感情が走った。
「…エウリル」
 フリレーテの低い声は、雨音にかき消された。フリレーテさま? グンナがフリレーテの手を取って軒先へ入ろうとすると、フリレーテはそれを遮って腰に差した剣をスラリと抜いた。
 まるで子供がおもちゃでも取り出すかのように、楽しげに。
 ああ、やはり俺はエウリルを殺すために、アストラウルに生まれてきたのだ。
 ルイカ、そうだろう。
「フリレーテさま!」
 バシャンと石畳の上を雨を蹴散らして駆け出した。剣の慣れない重さを両手に感じながら、フリレーテは目を見開きそれを肩まで持ち上げた。これを振り下ろせば、終わる。この苦しみも憎しみも、不毛な愛も全て。
 終わりにしよう。

(c)渡辺キリ