アストラウル戦記

 ビリッと空気が痺れるような感覚が襲った。
 乱れた雨音に気づいてナヴィが顔を上げた。一瞬、目の前が真っ赤になった。懐かしさにも似たフリレーテの姿はまるで幻のようで、あまりにも現実感がなかった。その美しい肢体と共に、記憶の底に閉じ込め続けてきた感情が一気に溢れた。
 額からこめかみを伝って流れた雨が顎からポタリと落ちると、ナヴィは絶叫した。
 ハティ。
 お母さま。
 どうして。
「…ナヴィ!?」
 切り裂くようなナヴィの悲鳴に、ガスクが驚いてナヴィの腕をつかんだ。強張った体に気づいて振り向くと、それはもう目の前に迫っていた。考えている暇はなかった。咄嗟にナヴィに覆いかぶさるようにその体を抱きしめると、ガスクはフリレーテが振り下ろす剣からナヴィを庇った。
 何も音は聞こえなかった。
 目の前にあるガスクの表情が、わずかに歪んだ。抱きしめられたまま、押し倒されるように水たまりの中に倒れ込んだ。ナヴィを守るように重なったガスクの背に雨が次々と降り注いで、流れる血を洗い流した。何も音は聞こえず、ただぬくもりだけがあった。
 動かない。
 あの日の二人と同じように。
「ガスク」
 声が震えて、呆然と青ざめたガスクの顔を覗き込むと、ナヴィはその大きな体の下から這い出した。
「ガスク、ガスク!!」
 身を起こして目を閉じたままのガスクの名を何度も呼んで、ナヴィは小刻みに震える手でガスクの背に触れた。胸当てに覆われていない肩から腰の辺りまで、剣で切られた跡が雨に打たれていた。その時、初めてフリレーテの乱れた呼吸の音が聞こえた。
 フリレーテは笑っていた。
「そいつがスーバルンゲリラのリーダーか。悪運が強いな、エウリル。でも、もう楽にしてやるよ」
 ガスクを切った剣をギュッと両手で持ち直して、フリレーテは笑った。その表情を見た瞬間、言いようのない憎悪に近い感情が胸の奥から吹き出して身を覆うのを感じた。剣を振りかざしたフリレーテを見て咄嗟にガスクの腰から大剣を抜き取ると、先を地面につけたままナヴィはフリレーテの剣の軌道を大剣で遮った。
 ガキンと金属が跳ね返る音が大きく響いた。
 周囲にいた人々が、それに気づいて悲鳴を上げた。重い大剣じゃ満足に構えることもできない。一瞬で判断すると、ナヴィは大剣を捨てて立ち上がり、自分の腰の剣を抜いた。
「誰か医者を! 頼む! 医者を呼んでくれ!!」
 倒れたまま動かないガスクにチラリと視線を走らせて、ナヴィが怒鳴った。振り上げられたフリレーテの剣を自分の剣で弾くと、反応のない周囲を見てナヴィは眉を潜めた。
 スーバルン人だ。
 スーバルン人を診る医者など、この辺りにはいないぞ。
 そう言っているのがわずかに聞こえた。カッと体が熱くなって、ナヴィはフリレーテの剣を剣で押し返しながら、早く医者を呼べ!と再び叫んだ。
 ナヴィの表情はフリレーテへの憎しみよりも怒りに満ちていた。もし倒れたのが自分なら、アストラウル人は医者を呼んだのか。ガスクがスーバルン人だから、死んでも構わないっていうのか。
 こんな。
 こんなことがあっていいはずがない。
「フリレーテさま!」
 ナヴィにジリジリと押し返されているフリレーテに、グンナが剣を抜きながら駆け寄った。間一髪でフリレーテを蹴り倒すと、ナヴィは身を低くしてグンナの剣を避けた。雨が目に入って視界が狭かった。やられる。振り下ろされるグンナの剣を見上げると、ナヴィはガスクに覆いかぶさりギュッと目を閉じた。

(c)渡辺キリ