アストラウル戦記

 それはいつまでも来なかった。
 ナヴィがそろそろと目を開けると、目の前に見たことのあるブーツがあった。肩で息をするようなハアハアという音と、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。
 グウィナンがグンナの剣を受けていた。
「バカ野郎…」
 グウィナンの声が降るように響いて、ナヴィは呆然とグウィナンを見つめた。グンナの剣を弾いて剣を構えると、動きに風をはらんだフードが脱げた。
「安全な所へ連れていけ!」
「グウィナン、なぜ…」
「早く!」
 ガスクを助ける間を稼ぐようにがむしゃらに攻めながら、グウィナンは叫んだ。まだ目を閉じているガスクの腕を肩に抱えると、ナヴィは歯を食いしばって立ち上がろうとした。ぐったりと力の抜けたガスクの体は重く、ナヴィ一人で動かすことはできなかった。
「全く、好戦的な連中だ」
 ふいに声がして、ナヴィが顔を上げるとプティ市警団の使者がナヴィとは反対側を支えてガスクの体を持ち上げた。手伝ってくれ! 冷静に言った使者の声に、同じようにラバス寺院を訪れた市警団の使者たちがガスクを支えた。一人が医者を呼びに走り出すと、ナヴィは呆然としたまま尋ねた。
「なぜ、あなたたちがここに」
「我々が泊まっている宿であのスーバルン人の僧侶と話し合っていたら、外で騒ぎが起こったので出てきたんだ。まさか君たちが騒ぎの元だとは思わなかった」
 初めに駆けつけた鼻の高い使者が言うと、ふいにわああという声がしてナヴィは振り向いた。グウィナンに攻め込まれ、グンナがフリレーテに逃げるよう指示していた。ガスクを頼みます。切羽詰まった表情でそう言って、ナヴィはガスクの体を使者たちに預けて駆け出した。
 見失う。
 駆けながら、顔を流れる雨を拭った。ハティとエンナのことを久しぶりに、鮮烈に思い出していた。グウィナンの剣からフリレーテを庇うグンナに向かって夢中で走ると、ナヴィは落ちていた剣を拾って振り上げた。
「!」
 それはフリレーテの肩を掠めた。グンナが咄嗟にその腕を引いて、フリレーテの体は雨の降り続く石畳の道に倒れ込んだ。その美しい目は憎悪に彩られて、ギラギラと輝いていた。一瞬、お互いを見つめ合うと、フリレーテが先に口を開いた。
「殺したければ殺せ。けれど、俺は必ずまたきさまの前に姿を現す。エウリル、きさまに流れるオルスナの血が絶えるまで、何度でも現れるぞ」
 肩で大きく繰り返す呼吸の音が、自分の体の中で大きく響いていた。ナヴィが剣を振り上げると、フリレーテは微笑んだ。ハティ。お母さま。あなたたちを殺した男を今、僕が殺す。考えるとすうっと体が冷たくなって、ナヴィはギュッと剣を握りしめた。
「…やめ…っ!」
 剣が振り下ろされた瞬間、グンナが手を伸ばした。
 切っ先が細かな石を跳ね上げた。ナヴィの剣はフリレーテの肩の脇に突き立てられていた。はあはあと息を繰り返して、ナヴィはただ目を見開いていた。目の前のフリレーテの美しい瞳を見ていた。
 僕は。
「…なぜ」
 低い声が誰のものなのか、ナヴィには分からなかった。殺さなければ。頭ではそう考えていた。けれど体は強張って動かず、右の目から涙が雨に混じって流れ落ちた。
 ふいにピリリリリッと笛の音が大きく鳴り響いた。
 その場にいた全員が同時に顔を上げた。広場の東側から軍兵たちが駆け寄ってくるのが見えると、グンナとグウィナンが同時にまずいなと呟いた。
「フリレーテさま、お早く」
 剣を鞘に収めて、力が抜けたようにナヴィを見つめているフリレーテを起こすと、グンナはその体を抱えるようにしてその場を離れた。ナヴィ、逃げるぞ。マントのフードをかぶりながらナヴィの背中にグウィナンが声をかけると、その声に弾かれたようにナヴィがグウィナンを見た。
 石畳の隙間に刺さったナヴィの剣は、ナヴィが離れた後も倒れずに立っていた。騒がしくなった広場に流れ込んだ軍兵たちの中には、対スーバルンゲリラ内戦部隊以外に中央所属の王立軍の記章をつけた者が幾人も混ざっていた。

(c)渡辺キリ