アストラウル戦記

 フリレーテがサニーラと話した次の日、セシルが旅支度を持ってフリレーテの部屋を訪れた。サニーラが未だ王宮内で持つ影響力を感じながら何もいらないとフリレーテが言うと、セシルは黙ったままフリレーテを着替えさせ軽いマントを羽織らせた。
「馬は表に用意してございます。フリレーテさま、どうかお早いお戻りを」
「分かっている。王太子は…」
「今は貴族たちとの謁見の最中でございます」
「そうか、では私が発ったことを伝えてくれ」
 フリレーテが言うと、セシルはかしこまりましたと答えた。あまりにも呆気ないな。王宮の外に出ると馬丁が馬を準備していて、フリレーテは帯剣をしてから馬に乗った。
 貴族であるフリレーテが一人、馬で王宮を出る姿は異様で、セシルはその姿が消えるまで見送ってから大きくため息をついた。よろしいのですか。ずっとフリレーテに付いていた侍女の一人が囁くと、セシルは厳しい表情で歩き出した。
「仕方あるまい。離れたところから見張るよう衛兵に指示を出している。王宮に戻らずとも、プティ市のアリアドネラ邸へは立ち寄るはず。そちらにも見張りを言いつけてある」
 自分に言い聞かせるように呟くと、セシルは侍女たちに下がるがよいと告げてから王太子の部屋へ戻った。そこにはすでに謁見を済ませたアントニアが書物を広げていて、セシルが慇懃に礼をするとアントニアは笑みを浮かべて頷いた。
「無事に発ったか」
「はい。行く先はお告げになられませんでした」
「そうか、そうだろうな。ありがとう」
 そう言ってまた書物に視線を落としたアントニアに、セシルは唇を開いてからすぐに閉じた。何か言いたそうだな。そう言って侍女を下がらせると、アントニアは書物の上に手を置いてセシルを見上げた。
「アントニアさま、サニーラさまは…」
「フリレーテに何か頼み事でもしたのだろう。強かな人だ」
「その内容について、お知りになりたいとは思われないのですか」
 思わず咎めるように言って、セシルは口をつぐんだ。椅子から立ち上がると、アントニアはセシルに手を差し伸べてにこやかに答えた。
「知る必要はないよ、セシル。おいで。久しぶりに君を抱きしめたい」
「アントニアさま…」
「ずっと彼の世話をしていたから、お前も疲れただろう。フリレーテが戻るまでゆっくり休むがいい」
 言いながら自分から近づいて、アントニアはセシルを柔らかく抱きしめた。あまり時間がないんだ…。そう言って急かすようにセシルの体を抱く腕に力を込めると、アントニアは頬を傾けてセシルの唇を吸った。
「…私はフリレーテさまに邪推をしていた訳ではないのです。でも」
 その首筋も鎖骨の辺りも十代の頃のように美しかった。セシルが小さな声で囁くと、分かっていると答えてアントニアはセシルの髪を優しく梳いた。
「アントニアさま、なぜあの方をお抱きにならないのです」
 アントニアの肩に額を寄せると、セシルは珍しく感情を込めた口調で呟いた。その問いには答えずにアントニアがセシルの腰の紐を外すと、セシルはその手をつかんでアントニアをジッと見つめた。
「あの方の代わりに抱かれるぐらいなら、いっそあなたとは二度と会えない遠い地へ行かされる方がずっとマシです」
 セシルの目がわずかに揺れて、アントニアはその表情を眺めた後、お前を代わりだなどと思ってはいないとかすれた声で答えた。
「彼には私には理解しがたい何かがある。それが知りたいだけだ。愛している訳ではない。フリレーテを抱くことなど考えたことはないよ、セシル」
 アントニアの言葉に息を詰めると、セシルは黙ったままアントニアの手を離した。フリレーテの中にある何か。なぜ冷たい言葉や表情の内に熱情を感じるのか。彼がその身の内に何を秘しているのか。
 セシルの体を抱きしめると、アントニアは唇をセシルの髪に埋めて正面を見据えた。フリレーテ。お前が本当に欲しいものは、何だ。

(c)渡辺キリ