アストラウル戦記

 空は今にも雨が降り出しそうな厚い雲に覆われていた。
 少し汗ばんだ首筋を手の甲で拭って、ナヴィはガスクの隣を歩きながら緊張に身を固くしていた。外に出る時はマントのフードをかぶるようにリーチャに言われていたために、これまで昼間に顔をさらしてダッタンの下町を歩いたことはなかった。ガスクがいるおかげで襲われずに済んでいるのかもしれない。そう考えてしまうほど、スーバルン人たちの多く住む南の地区はナヴィを拒んでいた。
 アスティだ。
 なぜアスティがガスクと?
 何となくナヴィの噂を聞いていた者だけが、物珍しそうにジロジロとナヴィの顔を見たり、野次るように口笛を吹いたりしていた。
「ナザナは平気なのに」
 思わずナヴィが口にすると、ガスクがチラリとナヴィを見て答えた。
「あいつだって決まった所にしか顔を出さないようにしてるだろ。それにアニタの一家は父親をアスティに殺されたってんで、スーバルン人からも同情されてんだ。俺たちだって、なりふり構わずアスティを憎んでいる訳じゃない」
「…」
 石畳の道で足を止めると、ナヴィは眉をひそめたまま細く息を吐いた。今さらながら、ガスクの決意がどれほどの摩擦を生むのか思い知らされたような気がした。動揺する心を隠しながらナヴィがガスクを見上げると、ガスクはナヴィの表情を見て口を開いた。
「慣れたよ。グステ村からずっと一緒にいるからな」
「…ありがとう」
 ガスクの言葉を聞くと涙が出そうになって、ナヴィはガスクから視線を外してスタスタと歩いた。スーバルン人が営む古く小さなバーに入ると、ガスクは店の主人に軽く挨拶をしてから尋ねた。
「以前も聞いたと思うが、グウィナンを見かけなかったか。噂でもいい」
「他の奴らにも聞いてみたんだが、やっぱり誰も見てねえって。ダッタンにいないんじゃないのか」
「今の所、ダッタンから出ていったのを見た奴もいなくて」
「そうか…なあ、グウィナンがどうしたんだ。何かあったのか」
 カウンターに腕をかけてそこにもたれながら主人が尋ねた。その表情にはわずかに不安が見て取れた。ガスクの隣に立つ肌の白いナヴィをジロジロと見ると、主人は身を乗り出すようにして言った。
「お前がアスティと手を組んで王宮に攻め入ろうとしてるって、みんなその噂でもちきりだぜ。そこにいるチビが唆したって。リーチャが死んだのもそいつのせいだって言うじゃねえか。ガスク、アスティなんて信用すれば根こそぎ持ってかれるだけだって俺のじいちゃんも言ってたぜ」
 意地の悪そうな言い方に、体の芯がカッと熱くなってナヴィは言い返そうと一歩前へ出た。その腕をつかんで引き戻すと、ガスクはナヴィの肩を抱いて答えた。
「リーチャを殺したのはアスティの兵隊だ。ナヴィはリーチャを助けようと戦ってくれたし、俺もこいつには何度も助けられてる。パンネルが自分の息子にしようと名を与えたぐらいなんだ。これからナヴィに関する話を聞いたら、あんたからもそう言ってやってくれないか。無理にとは言わないが」
「いいや、いやあ…パンネルがそう言ってるんなら。それに俺だって噂に聞いただけで、本気でそう思ってる訳じゃねえ」
 悪いな。ナヴィに取り繕うような笑みを見せると、主人は棚からリンゴを取ってナヴィに投げた。それを受け取ったナヴィを見ると、ガスクはカウンターに手をついて声を潜めた。
「アスティから共に戦おうと使者が来たのは本当だ。俺がそいつらの話を聞くためにプティに行こうとしているのも、本当なんだ。俺はあいつらがどれぐらい俺たちのために動いてくれるのか、見極めようと思ってる。戻ってきたらきちんとみんなにも説明するから、俺を信用して待っていてくれないか」
 ガスクが言うと、主人は不安げにガスクの顔をジッと見て、あんたを信じない奴はスーバルンの中にはいねえよと答えた。ガスクと二人で店の外に出ると、ナヴィは顔を真っ赤にして口を開いた。
「初めて会った人なのに、ひどいよ。僕のことをあんな風に思ってるなんて」
「まあ、あんなものだろうな」
 そう言って歩き出すと、ガスクは隣についてきたナヴィに小さく笑みを見せた。
「パンネルに感謝するんだな。ナヴィという名が、ここでは免罪符みたいなもんだ」
「何も悪いことしてないのに」
 ガスクについていこうと懸命に早足で歩くと、ナヴィは不満げに言葉をもらした。行き交うスーバルン人たちは相変わらずナヴィとガスクをジロジロと見ては、何か小声で噂しあっていた。足を止めて振り向くと、同じように足を止めたナヴィを見てガスクは答えた。
「悪いことをしてないのは、スーバルン人も同じだ。何もしていないのに殺され、奪われることもある」
 その表情も声も厳しく、固かった。一瞬、初めて会った時のガスクを思い出した。ごめん。真顔でナヴィが呟くと、ガスクはニヤリと笑ってナヴィの腕をつかみ、また歩き出した。
「まあ、今日で少しはマシになるだろう。今は噂だけが広まっている状態だ。実際にお前を見れば、こんな間の抜けた顔のチビが俺たちを欺ける訳がないって、一目で分かるだろうよ」
「ひどい」
 ムッとしてナヴィが言うと、ガスクは吹き出した。その間抜け面、広めに行くぞ。ナヴィから手を離してガスクが言うと、ナヴィは黙ってふてくされたまま後をついて歩いた。

(c)渡辺キリ