アストラウル戦記

 一日の仕事が終わってアストリィの自宅へ戻ると、ルイゼンは軍服を脱ぎながら小さく息をついた。昔からハイヴェル家に仕えている侍女が、ゆったりとした白いシャツを手に持って軽く笑みを見せた。
「最近、王宮にいらっしゃるお時間が増えて、お疲れでございましょう」
「そうだな。少し増えたか…」
「ルイゼンさまも、もう二十歳でいらっしゃいますもの。お父上さまも本格的にルイゼンさまを跡継ぎとしてお考えなのですわ」
 そばにいた若い侍女が、軍服のジャケットにブラシをかけながら言った。いつものように別の侍女がワゴンを運んできて、華美な装飾のついたテーブルに湯気のたつジンジャーティーのカップを置いた。若い侍女の言葉にそうだなと答えて笑うと、ルイゼンは服を年配の侍女に着せてもらってから口を開いた。
「すまないが、しばらく一人にしてくれ。ゆっくり考えたいことがある」
「かしこまりました」
 ルイゼンの身の回りの世話を簡単に終え、侍女たちは礼をして部屋から出ていった。最後の一人が丁寧にドアを閉めると、ルイゼンはベッドに座ってそこに身を横たえた。
 私は…何をしているんだろう。
 天蓋の模様を見て目を閉じると、熱い息を吐いてルイゼンは額を押さえた。ダッタン市へ派遣された兵は、エウリルさまを見つけただろうか。もしエウリルさまが王宮へ戻られたら…私はどうすればいいのか。
 いや、エウリルさまはすでにローレンさまの元へ行っているかもしれない。
 どちらにせよ、私はエウリルさまを逮捕しなければいけないのか。
「ルイゼンさま、お久しぶりです」
 ふいに声がして、ルイゼンは驚いて飛び起きた。天蓋ベッドの中を覗き込むようにして、イルオマが微笑を浮かべていた。イルオマ、お前どこから。緊張で掠れた声でルイゼンが尋ねると、イルオマは答えた。
「私に入れない所はありません。例え王妃の部屋でも、ご命令とあれば入ってみせますよ」
「イルオマ、お前」
「あ、だからと言って、私がエンナ王妃を殺した訳じゃありませんよ。あれはもっと…悪いものの仕業です」
 慌てて言葉を付け加えると、イルオマは呆然とこちらを見上げているルイゼンを見つめ返して笑った。夢じゃありません。イルオマが言うと、ルイゼンはイルオマの軍服の首元に気づいた。
「お前、階級章はどうした」
「もう必要ありませんので捨てました」
「必要ないってお前…」
「みんな、結構見てないもんですね。これ、ダッタンで買ったバッジなんですよ。可愛いでしょう。でも、私の顔と軍服で判断しているようで、王宮の軍司令本部にも難なく入れました」
 そう言って襟元を引っ張ると、王立軍の階級章と似たシロツメクサのバッジをルイゼンに見せてイルオマはおかしそうに笑った。戸惑うようにイルオマを見上げると、ルイゼンは声を震わせた。
「お前も行くのか、イルオマ」
「はい。エウリルさまについていこうと思います。あの方たちはきっとこの国を変えてくれると信じています」
「バカな…それをなぜ私に。それに軍の最高機密を知る諜報部員のお前が脱走など、死刑は免れないぞ」
「分かってますよ。でも、それはエウリルさまも同じですから」
 そう言って身を起こすと、天蓋ベッドから離れてイルオマはテーブルに近づいた。これ、いただきますね。そう言ってティーカップを指差すと、イルオマはまだ湯気のたつジンジャーティーをすすってクッキーを口に放り込んだ。
「王宮の味とも、もうお別れですね。名残惜しくはありませんけど」
「イルオマ。私はお前を評価している。このまま軍にいれば生涯、安定した暮らしを望めるんだ。家族への保証もある。軍に残って私を補佐してほしい」
「無理ですよ、ルイゼンさま。もうタンカ切っちゃったしなあ」
「え?」
 ベッドから立ち上がってルイゼンが聞き返すと、イルオマは目を細めてカップをテーブルに戻し、部屋のドアノブをつかんだ。
「それに、生涯安定した暮らしを望めるというのは言い過ぎです。王立軍という名の軍隊は近い将来なくなるでしょう。ルイゼンさま、これまでお世話になったお礼に、一つだけ教えて差し上げます」
 ドアノブを回してわずかにドアを開くと、イルオマはルイゼンを見つめて口を開いた。
「アストリィで反王宮派として動いている貴族は、全体の約三分の一です。残りの内の半数は日和見を決め込み、今すでにローレンさまの紹介状を持った反王宮勢力が、その日和見連中を説得して回っています。王宮のお膝元ですらそうなんです」
「…それは本当か」
「はい。数日かけて調べました。王がもしご健在なら、もう少し違った結果になっていただろうと思いますが…ローレンさまが王宮を出られたという噂はすでに広まり、アントニアさまが単独で政治を行われることに不安を覚える貴族は多いということです。ルイゼンさま、もし私たちの元へ来られるなら、エウリルさまはきっと喜んでルイゼンさまをお迎えになられると思いますよ」
 余計なこと言っちゃいましたかね。苦笑してそう言うと、イルオマは部屋を出た。それでは、失礼いたします。深くお辞儀をすると、イルオマは静かに部屋のドアを閉めて去っていった。
 アストリィの貴族の三分の一。
 思ったよりも多い。どういうことだ。王宮はすでに崩壊しつつあるのか。
 そう思っておいた方がいい。それなら今、私がすべきなのは王宮を守ること。考えながら痛む頭を押さえて、ルイゼンはギュッと眉をひそめた。
 今の王宮を守り、ローレンさまとエウリルさまをご説得申し上げ、王宮へ戻っていただこう。
 そうすれば…私がずっと思い描いていた王宮となるはず。
 エウリルがいなくなってから、ずっと胸のどこかに喪失感を抱えていた。その喪失感の意味が初めてはっきりと見えた気がした。イルオマが飲んだジンジャーティーはすでに冷めていて、ルイゼンはその紅茶の美しい色を眺めながら長い息を吐き出した。

(c)渡辺キリ