アストラウル戦記

 オルスナとの国境のそばにあるローレンの別荘の一室で、何となく寝つけずにユリアネは何度も寝返りを打っていた。
 夜明けが近づいていた。目を開いて窓の外を眺めると、ユリアネは廊下を歩く足音に気づいて身を起こした。ベッドに手をついて降りると、頼りなげに壁に立てかけていた棒をつかんでユリアネは壁際を伝ってドアに近づいた。
 追っ手かしら。それとも、ローレンたちが戻ってきたのかもしれない。
 もし王宮の追っ手なら…どうなるかしら。考えて苦笑すると、ユリアネは息を大きく吸い込んだ。そんなことを考えている余裕があるなら、まだ死ぬ気はしないわね。ギュッと両手で棒を振りかぶると、足音はドアの前で止まった。
 そろりとドアノブが開く。
「ユリアネ」
 低い声が響いた瞬間、振り下ろされた棒が床を叩いた。うわっと声がして、ユリアネが驚いて見上げると、そこには軍服姿の男が立っていた。ルイゼン。呆気にとられてユリアネが呼ぶと、ルイゼンは口元を押さえて息を吐き出した。
「驚かせてすまない。起きているとは思わなかったんだ」
「あなたらしくないわ、ルイゼン。女性の部屋に夜明けに忍んでくるほど、粋な人だったかしら」
 ユリアネが真顔で言うと、ルイゼンは申し訳ないと答えて叱られた子供のように目を伏せた。中へ入っても? ルイゼンが言うと、ユリアネは頷いてルイゼンを部屋へ通した。
「明かりをもらってくるわ。まだ明るくなるまでに時間があるから」
 そう言ってユリアネが部屋を出ようとすると、ルイゼンはいいんだと言ってユリアネの手をつかんだ。その手はどこか緊張していて、ユリアネはルイゼンの手の上からもう片方の手を添えてルイゼンを見上げた。
「座って。何か話があって来たんでしょ」
「…すまない、ユリアネ」
「いいのよ。どうぞ」
 そう言って窓際に置いた椅子を勧めると、ユリアネは棒を床に置いてベッドに座った。そこに置いていた膝掛けを肩から羽織ると、薄暗い中、窓際から椅子を動かして座ったルイゼンをジッと見つめた。
「ルイゼン、以前のようにそう呼んでもいいの?」
 ユリアネが尋ねると、ルイゼンは目を伏せたままためらい、そして頷いた。私の心は変わっていない。そう言ってまた黙り込むと、ルイゼンは自分の膝の上で両手を組んだ。
 朝にはまた、王宮へ戻らなければならない。
 ローレンさまやエウリルさまと相反する立場に、戻らなければならないんだ。
「ユリアネ。父上から先日、エウリルさま追補の任から外れるよう指令が下った」
「ハイヴェル卿から? なぜ…エウリルさまはダッタンでローレンたちと落ち合ったのではないの? それをハイヴェル卿はご存じなの?」
 ユリアネが尋ねると、ルイゼンはゆっくりと言葉を選びながら答えた。
「父上は、ローレンさまたちがダッタンへ向かったことはご存じない。ローレンさまはプティにおられると仰っていた。私もローレンさまがその後、エウリルさまと無事に再会されたかは分からないんだ」
「ハイヴェル卿がはっきりとローレンがプティにいると仰ったのなら、そう言えるだけの情報を持っているのかもしれないわ。エウリルさまを迎えにいくだけなら、ローレンがいなくてもアサガ一人で何とかするでしょう」
「そうか…そうだな」
 力なくそう言って、ルイゼンは口元を押さえた。その顔色は悪く、ユリアネは心配げに尋ねた。
「私に何を聞きたいの」
 ユリアネの言葉に、ルイゼンは視線を床に落としたまま答えた。
「ローレンさまがどこにおられるのか、君に尋ねたくて来た。ローレンさまに王宮へ戻っていただきたいんだ」
「なぜ? ローレンの気持ちは以前、ここで聞いたはずよ」
 厳しい表情でユリアネがきっぱりと答えると、ルイゼンはしばらく言葉を選び、それから顔を上げてユリアネを見た。
「ローレンさまが王位継承権を放棄されたことを聞いて、アストリィの貴族たちが王宮から離れつつあると聞いたんだ。ユリアネ、ローレンさまは本当にもうアストリィへは戻られないのか。私はローレンさまにもう一度会って、アントニアさまと和解をお勧めしたいと考えている」
「…」
 黙ったままルイゼンの話を聞いていたユリアネは、しばらくして小さくため息をついた。それを私に話すのね。そう言って、ユリアネはうっすらと明けてきた外から差す光を横顔に受けながらルイゼンを見つめた。
「残念だけど、私にもローレンの居所は分からないわ。エウリルさまがオルスナへ向かわれたなら、私もアサガを連れてオルスナへ亡命しようと思っていたけど、そういう訳じゃないみたいだし、アサガからも連絡はないし…」
「そう…」
「でもルイゼン、本当ならあなたに逮捕されてもおかしくない所を見逃してもらっているんだもの。借りは返すわ。私にもローレンがどこにいるかは分からないけど、プティへは私が行きます」
「ユリアネが?」
「ええ。ローレンを探して話してみる。エウリルさまのことはともかく、ローレンとアントニアさまが対立していることが国のためになるとは思えないもの」
「ありがとう…ありがとう、ユリアネ」
 そう言ってユリアネの手をつかむと、ルイゼンはホッとしたように笑みを見せた。それを複雑そうな表情で見ると、ユリアネは口を開いた。
「本当はもう、エウリルさまとオルスナへ帰りたいわ。エンナさまが亡くなられた今、アストラウルにいる意味はないんだから」
「ごめん、ユリアネ…君に危険なことを頼んだりして」
「いいわよ。あなたも、アサガもエウリルさまも、ほんの小さな頃からずっと見てきたんだもの。どちらにせよ、私もいつまでもここでこうしている訳にはいかないし、プティでローレンにあなたからの伝言を伝えたら、そのままエウリルさまやアサガとオルスナへ行くわ」
「それじゃ…ユリアネ、君とはもう二度と会えないかもしれないんだね」
 ルイゼンが言うと、ユリアネはそうねと答えて寂しげに笑った。
 夜明けと共に、一頭の馬がローレンの別荘から走り去った。その影が森の木々の間に隠れるまで、ユリアネは二階の窓から見送った。

(c)渡辺キリ