アストラウル戦記

 ガスクがよく眠っているのを確認すると、ナヴィはバスルームで汚れた体を洗った。王宮ほどではないものの豪奢なバスタブを見たのは久しぶりで、そこに置いてあった石けんで髪まで綺麗に洗うと、柔らかなタオルで拭いてからナヴィは備えつけてあった部屋着を羽織った。
 いい匂いがする。
 バスルームの鏡で自分を見ると、まるで王宮にいた頃に戻ったような気がした。ああ、ここが違う。あそこも。考えながら短くなった髪や顔の傷に触れると、一つだけ残った耳のピアスに気づいてナヴィは部屋に戻った。
 誰も入らないよう言いつけてあったおかげで、部屋には二人以外に誰もいなかった。急に腹が鳴って、ナヴィは部屋のドアを開けてちょうど通りかかった雑用夫を呼んだ。
「すまないが、何か食べ物を。それから支配人を呼んでくれ」
「かしこまりました」
 見違えるようなナヴィの姿に、雑用夫は丁寧に礼をしてロビーへ向かった。その間にナヴィがバスルームで自分の汚れた服を洗っていると、しばらくして支配人と食事を持った小間使いが部屋を訪れた。
「いかがいたしましたか」
 支配人はナヴィの扱いを決めかねているようだった。一人分の食事をトレイに乗せた小間使いがそれをテーブルにセッティングしているのを見ると、ナヴィは耳についたピアスを外してそれを差し出した。
「この石を売りたい。商人を呼びたいがどこにいるのか分からないので君に頼みたい」
 ナヴィが言うと、支配人は失礼いたしますと答えてピアスをポケットから出したハンカチの上に乗せた。ワインの栓を抜いて小間使いがそれをグラスに注いでいる間、支配人は怪訝そうにじっくりと石を見てからふいに顔色を変えた。
「失礼ですが、これはどちらで」
「昨年の誕生日に父から贈られたものだが…」
 ナヴィが怪訝そうに答えると、支配人は失礼いたしましたと答えてピアスをナヴィに返した。セッティングを終えて部屋を出ていこうとした小間使いを呼び止めると、部屋に残って世話をするよう命じてから、支配人はナヴィを見て口を開いた。
「お預かりする準備が整い次第、改めて伺いましょう。それまではお手元で保管なさって下さい」
「できるだけ早く頼む」
「承知いたしました」
 そう答えて、支配人は部屋を出ていった。大丈夫だろうか。てっきりこの場で換金されるものとばかり思っていたけど。不安に思いながらナヴィがテーブルを見ると、そこには一人前の食事が用意されていた。
「君、怪我人も食べられるような柔らかなものを頼む。彼が目を覚ましたらすぐに食事が取れるように」
「あの…しかし」
「不満なら僕が行こう。君はここで待っていてくれるか」
 ナヴィが言うと、小間使いはチラリと眠っているガスクへ視線をやってから慌てて部屋を出ていった。全く、しょうがないな。ため息をついてベッドの脇へ戻ると、ナヴィはガスクを見た。
 薬が効いたのか、少し熱の下がったガスクはぐっすりと眠り込んでいた。
 その脇にあった椅子に座ると、ナヴィはそこにあった布でガスクの額の汗を拭った。眠りながらもどこか苦しいのか、キュッと眉を寄せているガスクの表情に、ナヴィはガスクを起こさないように気をつけながらその顔を覗き込んだ。
 ベッドに乗せた腕に頬を寄せると、ナヴィの頭は横になっているガスクと同じ方向へ傾いた。グステ村からダッタン市へ来る途中、熱を出した自分をガスクが看病してくれたことを思い出した。今度は僕がガスクのために働く番なんだな。そう思うとわずかに胸が疼いた。
「…ナヴィ」
 ふいにかすれた声がして、ガスクがぼんやりとナヴィを見た。慌てて身を起こしてガスクの目を覗き込むと、ナヴィは顔を歪めた。
「ガスク、ガスク!」
「…何だこれ。何でお前…」
 動かない体に違和感を覚えて、ガスクが小さな声で尋ねた。目が覚めてよかった。本当によかった。真っ赤になって、言葉を絞り出すように言ってナヴィがベッドにすがりつくと、ガスクはぼんやりとナヴィの表情を眺めた。
「覚えてる? ガスク、切られたんだよ」
「…いてえ」
 低く小さな声で呟くと、ガスクは仰向けに寝返りを打とうとした。駄目だよ、背中縫ったんだから。ナヴィがガスクの肩を押さえて言うと、ガスクはぼんやりとした表情でナヴィを見上げた。
「夢見てた」
「何から話したら…そうだ、グウィナンは見つかったよ。今はナッツ=マーラの所に戻ってる」
「そうか…」
「ええと、怪我は見た目より浅いって。うつ伏せはいいけど仰向けはしばらく駄目だってお医者さまが。ガスク大丈夫だよね。大丈夫なんだよね?」
 ナヴィが早口で言った。その声にようやく頭がはっきりとしてきたのか、ガスクは二度頷いてからまた小さな声で答えた。
「もっとひどいケガでも大丈夫だったから、今度も大丈夫だ」
 その言葉に、ナヴィはバカだなと呟いた。
「前が無事なら今度も無事だなんて、そんなの分からないだろ」
 ナヴィが怒ったように言うと、ガスクはジッとナヴィを見上げた。悪い。口元で言葉を転がすように呟いて、ガスクは目を細めた。
「無事でよかった」
 僕は。
 ガスク、僕は…恐かった。
 また置いていかれるのかと、そう思うだけで。
 頭を垂れて目をギュッと閉じると、ぽたりと涙が落ちた。祈るように組んだ両手に力を込めて、ナヴィはボソリと答えた。
「ガスクにまで死なれたら、僕は」
「…」
 ふいに重い腕を持ち上げて、ガスクがゆっくりとナヴィの手に触れた。その手は大きくて温かかった。まだ爪にこびりついていた黒ずんだ血に気づくと、ナヴィはその手の上に反対側の手を乗せた。
「泣くな。笑えよ」
 ガスクが言った。こんな状況で笑えないと口答えをしてから、ナヴィは涙の残る顔をくしゃくしゃにして笑みを見せた。

(c)渡辺キリ