アストラウル戦記

   10

 王都アストリィはアストラウル王国の中でも緑豊かな北部に位置し、その城下には規則正しく整備された白い石垣の続く美しい町並みが広がっていた。
 そこは王族に近い高位貴族たちの本宅が多く、貴族院や最高裁判所も配置されていて、小国アストラウルの政治機能は全てアストリィ中心に動いていた。
 端が見えないほど広大な王宮の前庭を望む大窓を向かいに、王の椅子に座って書類に目を通していたアントニアは、王妃さまがお見えでございますという侍女の声に軽く視線を上げた。鼻にかけていた小さな眼鏡を取ってアントニアが頷くと、侍女たちが開いたドアから派手やかな山吹色の衣装を身につけたサニーラがゆったりと入ってきて、アントニアに微笑みかけた。
「ご機嫌よう」
「おはようございます、お母さま。ご機嫌はいかがですか」
 同じようににこやかに笑みを浮かべて立ち上がると、アントニアはサニーラに歩み寄ってその右手を柔らかく取り、指先にキスをした。とてもいいいわ、ありがとう。そう言ったサニーラの後ろから、もう一人、淡い水色のドレスを身にまとった女性が姿を見せた。
「アントニアさま」
「珍しいね。あなたがここへおいでになるとは」
 少し驚いてアントニアが女性の手を取って同じように挨拶のキスを落とすと、サニーラが口元に笑みを残したまま代わりに答えた。
「私がお誘いしたのよ。ノーマ、あなたは次代の王妃として、もう少し王宮の中を知っておかねばならないわ」
「申し訳ございません、お義母さま。でも私、アントニアさまのお仕事の邪魔をしてはと思うと、とても一人でこちらへは来られませんわ」
 ノーマと呼ばれた女性は小さな声でそう言って、優しげに視線を伏せた。邪魔などとは思わないよ。ノーマの手を握り返してアントニアが答えると、ノーマはありがとうございますと素直に礼を言ってアントニアを見上げた。
「でもやはり、アントニアさまには大勢の大臣たちがついているのだもの。私の出る幕など」
「でも、アントニアが王になればあなたは第一王妃となるのだから。あなたが一番そばでアントニアを支えてあげなくては。もう少し国の仕組みなども知った方がよくてよ。ねえ、アントニア」
 やんわりとサニーラが注意をすると、アントニアはそうですねと言葉を続けた。
「アントニア、あなたが王として貴族院の承認を受ける際には、私とノーマも同席させてもらうつもりですよ。父王がこのように政務を取れない以上、一刻の猶予もありません。他国に知れる前に、あなたの戴冠式を盛大に行わなければ」
「大臣たちが準備を進めてくれていますよ。お母さま、ご心配には及びません」
「あなたがそう言うなら、安心だけれど…私にはもう、あなたしか息子はいないのよ」
 最後の方は囁くように言って、サニーラはアントニアを見つめた。ご安心下さい。アントニアが目に笑みを浮かべて答えると、サニーラはようやく安堵してゆったりと手に持っていた羽扇を揺らしながら口を開いた。
「私は先に戻ります。ノーマ、あなたはしばらくここにいなさいな」
 にこやかにサニーラが言うと、ノーマはそうさせていただきますわと頷いてサニーラに優雅に挨拶を返した。サニーラが侍女を数人連れて部屋から出ていくと、アントニアはノーマを見てテラスを手で示した。
「せっかくあなたが来てくれたのだから、少し休もう。セシル、お茶の用意を。君が入れたお茶はノーマもお気に入りだから」
「かしこまりました」
 さっきまでアントニアのそばで政務を補佐し、今は部屋の隅に控えていたセシルが、ノーマにゆったりとお辞儀をしてから部屋を出ていった。テラスの窓を開け放し、その横にテーブルがセットされると、アントニアはノーマの手を取ってそちらへ移動した。
「最近は自分の子の顔すら見られないほどの忙しさだ。あなたには申し訳なく思っているよ。お母さまはああ言ったが、あなたはあなたらしくしていれば結構だよ」
 細やかな装飾の彫り込まれた艶々と磨かれた椅子にノーマを座らせると、アントニアはその細い肩に手を置いて、ノーマに微笑みかけた。その表情を見て柔らかな笑みを返すと、ノーマは向かいにゆったりと腰掛けたアントニアを見上げて尋ねた。
「ローレンさまはまだお戻りになられないのかしら。私、あの方に子供の頃の絵を見せていただく約束をしておりますのよ。王宮に持ってきて下さるって仰ってたのに」
 夫を前にはにかんだ様子で言葉を選びながらノーマが話すと、アントニアはふと窓の外へ視線を向けてそうだったのと呟いた。少し間が開いて、ノーマがアントニアのスッと通った鼻筋を見ると、アントニアはその視線に気づいてノーマを見つめた。
「ローレンは約束を破るような方ではないが、今は忙しいのでまたいずれと思っていらっしゃるんでしょう。もう少しお待ちになっては」
「まあ、アントニアさま。あなたがお気になさるようなことではございませんことよ。私、余計なことを申し上げましたわ」
 ほんのりと赤く頬を染めたノーマが、少し居心地が悪そうに小さな声で答えた。お茶の用意を乗せたワゴンを押してセシルが部屋に入ってくると、二人はしばらく自分達の王子の話をして、それからゆっくりとお茶を飲んだ。
 ノーマが部屋を出ていくのを見送ると、アントニアは小さく息をついてから振り向いてセシルを見た。彼女はまだ、セシルが私のそばにいるのを怒っているのかな。アントニアが言うと、セシルは困ったように目を伏せた。
「失礼ながら、仰る意味が分かりかねます」
「最近、また君が『公私共に』私のそばにいるという噂はしっかりと耳に届いているようだから、お母さまにそれとなく私の所へ連れていくよう打診したのだろう。忙しいのに困った方だよ」
「アントニアさま」
 咎めるようにセシルが名を呼ぶと、恐いなと言ってアントニアは王の椅子にドサリと腰掛けた。
「ノーマさまはアントニアさまがなかなかお戻りになられないので、ご心配でいらしたんでしょう。それを」
「だってさ、吹き出すのを堪えるので精一杯だったよ。君のことはチラリとも見ない上に、私が君にお茶の準備を頼んだら、一瞬、こんな変な顔をしてさ」
 そう言って眉と唇を片手ずつ使って歪めさせると、アントニアはあははと声を上げて笑った。本当は君が入れたお茶も吐き出したかったに違いない。アントニアが意地悪そうに言うと、セシルはため息まじりに答えた。
「悪趣味ですよ」
「私の悪趣味は君が一番よく知ってるだろう。セシル、それよりもお母さまはフリレーテをちゃんと見張らせているのかな。ダッタンまで行ったんだろう」
 養子に入る前の実家にでも戻ったのかな。大きな黒檀の机に頬杖をついてアントニアが尋ねると、セシルはそのそばに姿勢よく立ったまま、声のトーンを少し下げて答えた。
「ダッタン市の郊外で宿を取ってからしばらく見失ったそうですが、その後、対スーバルンゲリラ軍の駐屯地に立ち寄られ、軍兵を一人連れてプティのご自分のお屋敷へ戻られたそうです」
「そう。あそこには私の兵がいたからな。ただの観光でもないなら、そうだな…敵討ちにでも行ったのかな?」
「私には分かりかねます」
 セシルが答えると、アントニアはつまらない答えだなと茶化してから羽ペンを手に取った。まあ、無事にシャンドランの所へ向かったなら、お母さまの面目も立つだろう。そう呟いて目の前の書類にサインをすると、脇にいたセシルがインクを吸い取り紙で押さえる様子を見ながらアントニアは言葉を続けた。
「じゃあ、そろそろ戻ってくるように伝えてくれるかな。戴冠式が終わればもっと慌ただしくなるから。彼にはこれまでローレンがしていたことをしてもらいたい。私一人でこなすのはもう限界だ」
「かしこまりました」
「彼はまだ遊びたいだろうが、そうもいかない。私もそろそろあの美しい顔が見たいしね」
「アントニアさま」
 また咎めるように囁いたセシルの声を今度は無視して、アントニアは頼んだよと念を押した。かしこまりました。そう言ってセシルが書類をめくると、アントニアは鼻眼鏡をかけてそこにまた視線を落とした。

(c)渡辺キリ