アストリィへ戻るのは、あの夜以来のことだった。
王宮から休暇をもらった日は、身元引き受け人となるオルスナの外交官の住む屋敷に世話になっていた。自分のことはどういう風に報告が行っただろう。旅姿で屋敷の長い壁に添って歩くと、ユリアネは静かな町並みを味わう旅行者のように白く美しい道を眺めた。
アストリィも見納めかもしれない。
プティでローレンに会ったら、すぐにエウリルさまを連れてオルスナへ戻ろう。懐かしい故郷へ。オルスナにはエウリルさまにお見せしたい景色がたくさんある。エンナさまがお育ちになった王宮も。
考えると気が急いて、ユリアネは屋敷の裏口へ回った。王宮兵の姿は見えなかったけれど、ずっと追われているような気がしていた。
ユリアネが気を張ったまま辺りを伺っていると、規則正しい足音が響いた。それは一度、通りを走る馬車の音にかき消された。貴族の屋敷で働く下働きかしら。考えながらユリアネが近づいてくる足音の主を見ると、ユリアネの視線に気づいて平民の服を着た男はふいに立ち止まり、背に負った大きな荷物をよいしょと持ち直した。
「こんにちは。いい天気ですね」
空は雲一つない夏の色をしていた。私に…話しかけたのよね。周囲には人影がなく、ユリアネは今日は暑いですねと当たり障りのない挨拶を交わした。
「すみませんが、水を持っていたら分けてもらえませんか」
男は平凡すぎるほど平凡な顔をしていた。髪と髭が少し伸びていて、旅でもしているのかしらと考えながら、ユリアネは足下に置いた小さな荷物の中から水筒を出して男に渡した。
「旨い。いい水ですね」
「ここから西へ十キロほど行った宿でもらったものですわ」
「そうですか。あなたはそちらから?」
「ええ」
ユリアネが頷くと、男はにこやかに笑みを見せそれじゃと言って立ち去った。中肉中背の男の後ろ姿をユリアネが眺めていると、ふいに屋敷の裏口が開いて中から年配の女性が顔を出した。
「ユリアネ! あなた、本当にユリアネなの?」
外交官の屋敷で長年働いているオルスナの下働きの女だった。パブシャ、元気そうね。満面の笑みで女を抱きしめると、信じられないわと言いながらユリアネを受け止めるパブシャの背をユリアネはトントンと優しく叩いた。
人目を避けて門の中へユリアネを招き入れると、パブシャはユリアネの手をつかんで涙を流しながら無事でよかったと言葉を詰まらせながら言った。心配かけてごめんなさい。ユリアネが言うと、パブシャはユリアネの手を離して首を横に振った。
「王宮から、あなたが流行病にかかったまま行方不明になったって知らせがあったのよ。エウリルさまはご病気だと発表されたままだし、エンナさまと第三王子さまが続いてお亡くなりになられたから、まさかあなたまでと思ったんだけど」
「それで、あなたからの手紙には病気にかかっていないか、繰り返し書いてあったのね」
ようやく合点がいって、ユリアネはこの通りピンピンしてるわと言葉を付け加えて笑った。本当によかったわ。ユリアネの華奢な肩を何度もなでると、パブシャは脇に置いていた小さな袋をユリアネの手に大事そうに握らせた。
「あなたに言われた通り、このお屋敷に置いていたあなたの持ち物を全てお金に換えたわ。今さらだけど、本当によかったのね。あなたの宝石も換えてしまったけど…」
「いいのよ。手間をかけたわね、ありがとう。パブシャ、本当に感謝してるわ」
そう言ってユリアネはパブシャを抱きしめた。もう行ってしまうの? 心配げに言ったパブシャを振り向いて見ると、ユリアネは裏口から出ていきながら答えた。
「私、エウリルさまとオルスナへ帰るわ。あなたには本当のことを言っておきたいの。この後、エウリルさまのことを何か聞くかもしれないけれど、エウリルさまのことを信じて。私の言葉を信じて」
「分かったわ。ユリアネ。最近はこの辺りでも、王宮の評判はあまりいいとは言えないの。王さまがご病気で、王妃と王太子が国を意のままにするつもりだともっぱらの評判なのよ」
「本当なの? もうそこまで噂されているのね」
「ええ。こないだもダッタン市で暴動が起きて、その場にいた民衆と軍が一触即発になったそうよ。ユリアネ、もう行ってしまうのね。せめてこれを」
外へ出たユリアネに、パブシャがブレスレットを外してユリアネの手首にはめた。私はもうオルスナへ戻ることはないわ。だから、私の代わりにこれをオルスナへ連れていってちょうだい。涙を流しながらも笑みを見せて、パブシャはまたユリアネの手を自分の両手で包み込んだ。
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