プティまでの道行きは、アストリィへ向かう貴族の馬車が多いせいか道路も舗装されていて楽だった。小さな馬でも買おうかしら。少し考え、自分の痕跡が残ることを恐れてやめた。武道を嗜む自分の足には自信があった。
オルスナの女が旅姿で歩いているのは珍しかった。何度か屈強な男に護衛をと声をかけられ、その度に丁寧に断っては先へ進んだ。夜遅く、小さな宿で部屋を取ると、ユリアネは部屋に入る前に宿屋の一階の食堂で簡素な食事を摂った。
プティに行った所で、ローレンがどこにいるかも分からないのに。
ダッタンへ行ったって同じことだわ。アサガやエウリルさまの居場所を下手に嗅ぎ回れば、自分がアストラウルの兵士に捕まってしまう。どうしたものかしら。トマトのスープを木のスプーンでクルクルとかき混ぜると、ユリアネはため息をついた。
プティにはローレンと懇意にしていた貴族が大勢住んでいる。その中でも、ローレンが連絡を取りそうな方を訪ねてみようか。
考えると少し気が楽になって、ユリアネはスープとパンを交互に口に運んだ。食堂のおかみが売れ残りのチーズを皿に入れて、テーブルに置いてくれた。ありがとう。ユリアネが顔を上げると同時に、宿の正面入り口のドアがふいにバタンと大きな音を立てて開いた。ユリアネが緊張して顔を強張らせ、脇の壁に立てかけていたオルスナ武術用の携帯棒をつかむと、宿に入ってきたアストラウル軍の兵士は宿の主人を大声で呼んだ。
何なの。
騒ぎの合間に食事の代金をテーブルに置いて、兵士たちが二階へ駆け上がるのを尻目にユリアネは荷物を抱えて裏口から宿の外へ出た。自分を追ってきたようには見えなかった。それなら、入り口の正面に座っていた自分はとっくに見つけられて捕らえられていたはずだ。
犯罪者でもいたのかしら。
それとも、スーバルンゲリラかもしれない。まだざわついている表通りの気配を伺うと、ユリアネは暗い裏通りに向かって歩き出した。それなら急いで出なくてもよかったかな。また宿を探すのは大変だわ。ため息をついたユリアネの後ろで、ふいにドッと物が落ちるような音が響いた。
え?
驚いて振り向くと、さっきの宿屋の二階の窓から黒い人影が飛び下りるのが見えた。ちょっと…。人影が動いてこちらに向かって駆け出すのを見て、ユリアネは念のために手に持っていた携帯棒を手早く組み立てた。
「ちょっと、冗談じゃないわよ…」
アストラウル兵士が追っていたのは、あの男なの? 考えた瞬間、宿から兵士たちが飛び出してくるのが見えた。別の家からもれた明かりに照らされた顔は、アストリィにあるオルスナ外交官の屋敷の前で、ユリアネに水を求めた男と同じものだった。
「ちょ…ちょっと、ちょっと!」
ユリアネに向かって真っ直ぐに駆けてきた男は、助けてくれ!と悲鳴を上げた。女に助けを求めるなんて、どういう男よ。ユリアネが覚悟を決めて戦うために荷物を投げ捨てようとすると、男はあっという間にユリアネに追いついて棒を構えたユリアネの背に身を縮めて隠れた。
「ま…!!」
待ってなんて言ってる暇ない!
追ってきたアストラウル兵は軽武装で、町中での任務のせいか首筋や腹は衣服に覆われただけで甲冑は着込んでいなかった。二対一なら勝てる。足手まといになりそうな追われた男をドンと突き飛ばすと、ユリアネは自分の荷物を男の方に向かって放った。
「私、アストラウルの兵士は大っ嫌いなの。あなたツイてるわ」
そう言った瞬間、棒を構えたユリアネを見て兵士が威嚇のために剣を抜いた。その懐に一瞬で飛び込むと、ユリアネは兵士の腹を棒の尖った方で突いた。
「ぐ…!」
そのまま棒をくるりと回して喉元を殴りつけると、兵士は剣を落として膝を折りその場に倒れた。もう一人の兵士がユリアネを見て激情したように剣を振りかぶった。両手で棒をつかんで剣の軌道を遮ると、ギンと金属がぶつかる音がして、ユリアネはクッと眉を潜めた。
「すみません、私、先に逃げます! あなたの荷物預かってますから!」
「え!? ちょっと!?」
ユリアネの後ろから男の声が響いた。まさか置き引き!? 焦ってユリアネが振り向くと、男はあっという間に裏通りを走って逃げ、その姿は小さくなっていた。
「冗談じゃないわよ!」
剣を棒でいなすと、勢いをつけてユリアネはもう一人の兵士の肩を殴りつけた。そのスピードについていけずに兵士がうっと呻いた。その隙に棒を握り直して後ろ手に持ち、ユリアネはすでに姿のない男を追って駆け出した。
兵士はまだ数人いたようで、暗闇の中でバラついた足音が響いていた。はあはあと乱れた息を唾と一緒に飲み込んで、ユリアネは路地に潜んで兵士たちが通り過ぎるのを待っていた。アストラウルの兵士たちは追ってきた者だけで五人もいて、じゃあ追われているこの男は何者なのと考えながら、ユリアネは振り向いて後ろに隠れるようにうずくまっている男を見下ろした。
男は逃げ足だけは速かった。ユリアネが追いかけた時にはもう姿も気配もなく、走りながら嫌な汗が背中をつつっと伝い降りた。ホント冗談じゃない。あの荷物が今の全財産なのに。考えると胸がムカついて、息が乱れて脇腹が痛くなった頃にふいに路地からここですと声がした。
「ちょっと、あなた何者? あれ、王立軍兵じゃないの」
ユリアネが言って男を見ると、男はユリアネを見上げてあっという顔をした。
「あなた、今朝アストリィで水をくれた方じゃないですか」
「そうよ。今頃気づいたの? まあ、行き先が同じならまた会っても不思議はないけど。プティへはこのルートが一番近道ですものね」
壁にもたれて棒をカシッと音を立てて折り畳みながらユリアネが言うと、そうかと答えて男は立ち上がった。あなたもプティへ? 男が尋ねると、ユリアネはそれには答えず荷物は?と言った。
「逃げるなら、私の荷物置いていきなさいよ」
「すみません。でも、置いていったらあなたが戦いにくいかと思ったんです。気が動転してたんですかね」
かぶったフードの上から頭を掻いて、男はユリアネの荷物を渡した。中を点検して何も盗られていないことを確認すると、ユリアネはそれを背負って男を見上げた。
「で、あなた何者なの? 犯罪者なら道連れはお断りよ」
ユリアネがはっきりと言うと、男は笑いながら答えた。
「私は犯罪者なんですか。ただ単に事情があって王立軍を自主的に脱隊しただけなんですけど」
「何だ、脱走兵なの。まあ、あなたみたいに弱そうな人じゃそれも納得だわ」
さっき驚かされたのを根にもっているのか、意地悪そうにそう言ってユリアネは路地から顔を出した。また兵士が戻ってくるかもしれないわね。ユリアネが小声で呟くと、男もユリアネの後ろから路地の外を覗いて言葉を続けた。
「あなた、お強いですね。ちょっと相談があるんですけど」
「何?」
「あなたもプティへ行かれるんなら、私の用心棒になってもらえませんかね。さっきご覧になった通り、私、腕の方はからっきしで。私を追っているのはアストラウルの兵士なので、私と一緒にいると危険な目に遭うかもしれませんが」
男が平然と言うと、ユリアネは呆れたように振り向いて男を見上げた。
「用心棒になってやろうとは何度も言われたけど、用心棒になってくれって言われたのは初めてだわ」
「実はアストリィを出る時に一人雇ったんですけど、あっという間に兵士にやられましてね。ちゃんと腕を見ておけばよかったんですけど、選んでいるような時間もなくて」
真顔で言った男を見ると、ユリアネはふいにおかしそうに笑った。あなた、変な人ね。ユリアネが言うと、男はたまに言われますとまた真顔で答えた。
「どうせ同じ方向に行くんだもの。相応のお金を払ってくれるなら引き受けてもいいわよ。でも、それ以上のことは期待しないで。宿の部屋も別よ」
「当たり前ですよ。私にはサムゲナンに妻子がいるんです。最愛の妻ですから」
笑いながら男が言うと、ユリアネはそれはよかったわと目を細めて右手を差し出した。
「ユリアネよ。よろしく」
「イルオマ=アレギナです。イルオマと呼んで下さい」
イルオマがユリアネの華奢な右手をキュッと握ると、ユリアネは肩を竦め、あなた本当に力が弱いのねと言って声を上げて笑った。
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