アストラウル戦記

 故アリアドネラ伯爵がいない屋敷では、違和感を覚えるほどフリレーテを中心に機能していた。いつもの夢の後、目を開いて高い天井を見上げると、フリレーテは身を起こして隣に俯せたまま眠る男の頭を眺め、目を細めた。
 白髪だらけのお義父上も、それはそれでおかしかったけど。
 昔は目が覚める度に、アリアドネラ伯爵が隣で今にも死にそうな寝息を立てていた。こんなおじいちゃんが俺の隣にと思うとおかしくて、何度も笑い死にしそうになった。それが今は、毎朝十キロは走る王立軍の男の隣だ。裸のままグンナの背に覆いかぶさると、フリレーテはその耳元で低く囁いた。
「グンナ、今朝は走らないの? 鍛えないと鈍るんだろ」
 フリレーテが腰を押しつけると、グンナは目を覚まして仰向けに寝返りを打った。おはようございます。少し眠そうに言ったグンナの腹に馬乗りになると、フリレーテは身を屈めてグンナに口づけた。起きろ! グンナの顔を覗き込んで頬を両手で挟むと、フリレーテは変な顔だと付け加えておかしそうに笑った。
「…フリレーテさま、私はさっき眠ったばかりなんですよ」
「俺だってそうだよ。一度で満足しないお前が悪いんだろ」
 今にも眠ってしまいそうな表情をしたグンナにもう一度キスすると、フリレーテは熱い吐息を吐いてグンナの顔を覗き込んだ。その途端、ふいに抱えられてベッドに押しつけられ、フリレーテは笑みを浮かべてグンナを見上げた。
「お前って淡白そうに見えるのにね」
「…からかうのはよして下さい。怒りますよ」
「いいよ。お前の怒った顔は好きだから」
 フリレーテが乱れた髪をかき上げながら答えると、グンナはため息をついてベッドから下りた。自分の衣服を身につけて窓を開けるグンナをフリレーテがベッドから眺めていると、ノックと共に執事の声が小さく響いた。
「お目覚めでございますか、フリレーテさま」
「起きてるよ。どうぞ」
 グンナがフリレーテの肩に薄手のショールを羽織らせると、ドアが開いて執事が入ってきた。お手紙が来てございます。貴族の家に長年勤める執事らしく優雅な手つきで手紙を幾通かテーブルの上に置くと、執事はドアの前で直立して言葉を続けた。
「それから、シャンドランさまの使いの方が、これをと」
 執事が白い封筒を差し出すと、グンナがそれを受け取ってフリレーテに渡した。へえ、返事が早かったね。そう言いながら封を百合の装飾の入ったペーパーナイフで開けると、フリレーテは中に目を通してから執事を呼んだ。
「使いの者はもう帰った?」
「いえ、お待ちでございます」
「そうか。じゃ、分かったと伝えてくれ。そちらの言う通りで構わないと。但し、こちらからは護衛に一人連れていくと言っておいて」
「かしこまりました」
 そう言って執事は部屋から下がっていった。腹減ったな。ぐううと音を立てた腹をなでると、フリレーテは裸のままベッドから下りて手紙を入れた封筒をテーブルに放った。
「後は朝食を食ってからだ。他の手紙はどうせ所領のことや貴族たちの機嫌伺いだろう」
「フリレーテさま、シャンドランさまからの使いとは…」
 心配げに言ったグンナを見上げると、フリレーテはお前も焼きもちかと目を細めて尋ねた。その首筋に腕を回してグンナにキスをすると、フリレーテは目の前にあるグンナの顔を眺めながら答えた。
「サニーラに頼まれた橋渡し役を済まさなきゃ、王宮へ戻れないだろ」
「サニーラ王妃がシャンドランと謁見を!? まさか…」
「ま、本当に会う気かどうかは分からないけどね。サニーラから預かった手紙をシャンドランに渡せば俺の役目は終わりだ」
「しかし、シャンドランはこれまで徹底して王宮とは対立する姿勢を貫いています。王妃からの要請とはいえ、すんなりと事が進むかどうか」
「お前が政治的なものの見方をするなんて珍しいね。心配なら着いてきてよ、グンナ」
 フリレーテが言うと、グンナは驚いてフリレーテの大きな瞳を見つめた。
「嫌ならいいけど」
「嫌だなどと…どこへでも参ります」
 熱っぽいグンナの言葉に、フリレーテは返事の代わりにキスを返した。明日の夜、シャンドラン邸で会食だ。グンナの目の前で囁くと、フリレーテはグンナから手を離して侍女を呼ぶベルを二度鳴らした。

(c)渡辺キリ