アストラウル戦記

 アリアドネラ邸へ戻ってから三日間、フリレーテは目の回るような忙しさだった。
 アリアドネラ伯爵が王宮で頓死してから当主不在が続いたアリアドネラ邸は、伯爵が溺愛していた養子であるフリレーテを次代当主として既に受け入れていた。アリアドネラの全てを引き継ぐと、四日目の昼、屋敷の一部屋を与えられていたグンナの元へフリレーテがようやく顔を出した。
「放ったらかしで悪かったな。居心地はどうだ?」
 グンナの部屋の窓際で、豪勢な昼食を並べている侍女たちを眺めながらフリレーテが言うと、ソファにきちんと腰かけていたグンナはフリレーテを見上げて答えた。
「不満はありません」
「満足もしていないか。貴族の屋敷などお前には窮屈だろうな。でも、王宮衛兵として働くよりは気が楽だろう」
 窓の外を眺めながら、フリレーテは軽く笑みを浮かべた。いえ。控えめに答えると、グンナは立ち上がってフリレーテの隣に並んだ。
「衛兵軍にいる方が正直、気は楽です。与えられた任務をこなしていればいいのですから」
 グンナが答えると、侍女たちがお食事をどうぞと二人に声をかけた。フリレーテが命じた通り、小さな大理石の丸いテーブルに皿がいくつも並んでいて、グンナはフリレーテの椅子を引いて座らせてから自分も向かいの椅子に腰かけた。
「みんな、グンナと少し話したいから二人きりにしてくれ。呼ぶまで下がってていいよ」
 フリレーテが自分でシャンパンの栓を抜きながら言うと、そばにいた使用人が戸惑いながらもかしこまりましたと答えて他の侍女たちと部屋から出ていった。ご自分で注がれるのですか。グンナが驚くと、シャンパンの瓶を傾けてフリレーテは頷いた。
「義父が生きていた頃はやってもらってたけど、本当は自分でやる方が気が楽なんだ。俺の中身はお前と同じ平民のままだからな」
「しかし」
「これまで我慢してきたんだ。せっかく当主になったんだから酒ぐらい自分の好きなように飲むさ」
 言いながらグンナのグラスにもシャンパンを注ぐと、フリレーテは自分のグラスを取り上げて乾杯と言った。グンナがそれに答えると、フリレーテはクンとシャンパンの匂いを嗅いでからそれを一気に煽った。
「アリアドネラの全てを俺が引受けることになってしまった。執事が準備を済ませておいてくれたおかげで、三日で手続きが終わったよ」
「私はもう、とっくにあなたがお継ぎになっておられるのかと思っていました」
 アリアドネラ伯爵が死んだという噂は、まだ衛兵として王宮を守っていた頃、既に聞いていた。グンナもシャンパンのグラスを口につけると、フリレーテは無造作にフォークを取り上げて前菜をぐちゃぐちゃにかき回した。
「アントニアのせいで、王宮から出られなかったんだ。あんなのに国を任せている大臣たちの気が知れないね。王宮をとっとと出ていった第二王子は賢明だ」
「しかし、あなたはアントニアさまの、あ…」
 愛人と言いかけ、言葉を前菜と共に飲み込んだグンナを見ると、フリレーテはかき混ぜた前菜を薄切りにしたパンに塗りつけて口へ運んだ。愛人だってみんな思ってるだろうな。そう言ってパンを口にくわえると、フリレーテは二切れ目を取ってそれに残りの前菜を盛り上げた。
「でも、キスをしてそれっきりだったんだ。それも俺が王太子に近づくために仕掛けたキス一度きりだ。何考えてんだろうな、あの王太子は。勃たねえ訳でもなさそうだったけど。そばにいるだけでも数人は手をつけている愛人がいたようだった」
「本当ですか。その…あなたがアントニアさまと何ともなかったというのは」
 グンナが確かめるように尋ねると、フリレーテはお前に嘘言ったってしょうがないだろと答えた。そうですか。どこかホッとしたように呟いたグンナにチラリと視線を向けると、フリレーテはスープの皿を取って自分の前に置いた。
「俺が王宮を出られたのも、アントニアがそう命じたからじゃない。サニーラさ。あれはあれで狸女だけどな…俺にシャンドランと渡りをつけたいと言ってきた」
「シャンドラン? ボウジア=ド=シャンドラン男爵のことですか」
「他にシャンドランという人間は知らないね」
 テーブルに肘をついて目の前までスープをすくったスプーンを持ち上げると、フリレーテはそれを口に運んだ。
 ダッタンからプティへ向かう間、ずっと考えていた。
 サニーラがなぜ、俺に、シャンドランと会わせてほしいと頼んだか。
 ただシャンドランと会うだけなら、俺を通さなくとも本人を呼びつければ済む話だ。何か内密の話をするのか、それとも俺を王宮から出すための記号か。
 王宮から出す…。
「面倒なことを考えたもんだな」
 カランと音をたててスープの皿にスプーンを放り出すと、静かに食事を摂りながら話を聞いていたグンナを見てフリレーテは考え込んだ。その邪魔をしないよう、フリレーテの美しい顔を見ることも控えてグンナは目を伏せたまま食事を口に運んだ。
「グンナ」
 ふいに呼ばれてグンナが顔を上げると、フリレーテはまたスプーンを手に取ってから口を開いた。
「少しゆっくりして疲れを取ったら、付き合ってもらい所がある。一緒に来てくれる?」
 フリレーテが言うと、グンナは仰せのままにと言葉少なに答えた。面白いものを見せてあげるよ。笑いながらそう言葉を続けて、驚いたようなグンナを見てからフリレーテは楽しげに食事を続けた。

(c)渡辺キリ