アストラウル戦記

 夏を迎えたプティは慌ただしく、いつもは静かな町もどことなく水面下でざわついていた。
 王宮を出て、以前から自分に賛同する貴族や平民たちを密かに統率しつつあったローレンは、自分の財産を全て証券化して妻のジョーイに持たせ、自身はプティに住む友人の屋敷に潜伏していた。
 アントニアが自分の動きに気づく前に、押し戻せないほどの力を作り上げなければならない。
 自分の中に、こんなにも冷たく熱い激情があったなんて、知らなかった。
 アストリィに住む王族に支援を頼む手紙を書きながら、ふと鳥の鳴く声に気づいてローレンは顔を上げた。アントニアは恐らく、自分がこうしてアストリィの王族や貴族と連絡を取っていることを知らない。そうでなければ、もっと本気で自分を潰しにかかるはずだ。
 そして、私も。
「ローレンさま、お茶をどうぞ」
 屋敷で働く侍女が部屋に入ってきてローレンのそばにワゴンを置き、熱いお茶を入れたカップをテーブルに置いた。ありがとう。表情を和らげてローレンが言うと、侍女はいえ…とはにかむように笑みを見せて下がっていった。
 私も、本気でアントニアを陥れ王宮を崩壊させようと目論んでいる。
 実の弟でありながら、父が作り上げ守り続けたものを、実の兄と母を、自分の志のために犠牲にしようとしている。
 テーブルに肘をついて顔を覆うと、ローレンはしばらくそのまま呼吸を繰り返した。いや、これも全てこの国のため。もう始めてしまったことだ。
「ローレンさま、エカフィさまがお見えでございます」
 ノックの音と共にさっきとは別の侍女がそう告げ、ローレンがお通ししてと言いながら立ち上がると、綺麗になでつけられた白髪まじりの頭にフロックコートを身につけた中年の男性が部屋に入ってきて笑みを見せた。
「ローレンさま、ご機嫌はいかがかと立ち寄りました。カスター伯爵はお留守のようですな。あまりお眠りになっていないと侍女たちから聞きましたが、少し休まれてはどうですか」
「いや、私を支援してくれる大勢の人たちのことを考えると、のんびりとはしていられません。エカフィ、あなたも」
「私はずっと、アントニアさまよりあなたさまが国を治めるべきだと考えていましたから。それに今、王宮はひどい状態だ。この戦いに参加することが私の意志でもあるのですよ」
 ギュッとローレンの手を握ると、エカフィはしっかりと頷いてローレンの手を離した。どうぞおかけになって下さい、男爵。ローレンが言うと、エカフィは窓際に置かれていたテーブルについてローレンを見上げた。
「エウリルさまからは、まだ連絡はございませんか」
 エカフィが言うと、ローレンは向かいに座って笑いながらありましたよと答えた。
「ネリフィオという私の私設団にいる男が、手紙を持ってきてくれました。エウリル本人の字だったので、本当にホッとしましたよ。元気そうだった」
「それはよかった。こちらへ向かわれているのですか?」
 エカフィが安堵しながら尋ねると、ローレンは頷いた。
「詳しいことは書かれていなかったけれど、すぐにこちらへ向かうと」
「そうですか。エウリルさまがご存命かどうかで、この国の状況も随分変わってきますからね。内戦が起これば、周辺諸国につけ狙われやすい。エウリルさまがこちらについて下されば、少なくともエウリルさまを可愛がっているオルスナ国王はこちらに手出しすることはないでしょう」
「さあ、それはどうかな…」
 テーブルに肘をついて両手を組むと、そこに唇を当ててローレンは声のトーンを落とした。
「彼も治世者だ。自国の利益になるなら、決断にエウリルの存在は影響しないだろう。アントニアも彼と同じ立場になれば同じことを考えますよ」
 ローレンの言葉に、エカフィは恐いなと目を細めて答えた。しばらく町の様子やアストリィの情勢を話すと、今夜は休んで下さいと言ってエカフィは部屋を出ていった。
 エウリルがオルスナにどう影響するかはともかく…早く私の元に来てほしい。
 お茶を前にぼんやりと窓の外を眺めると、ローレンは視線を伏せて小さく息をついた。一人では…やり切れない瞬間がある。
 エウリル。
 お前を助けることができなかった私が、お前に助けを求めるのは筋違いだろうが…私を支えてほしい。崩れないように。
 外の景色は緑が鬱蒼と茂っていた。開いた窓からわずかに風がそよぐと、ローレンは立ち上がって窓の外を通り過ぎる馬車や人々を黙ったまま眺めた。

(c)渡辺キリ