途中でアストリィやサムゲナン市への分岐点があるため、ダッタン市からプティ市へ向かう道はいつも人通りが多かった。ダッタンを出てから速度を上げて走る馬車は、一日目で予定を大幅に越えるほど進んでいた。
ガスクの怪我は馬車に揺られたせいか少し悪化して、宿についた頃には熱を出していた。かろうじて意識を保っていたガスクを支えてナヴィが馬車から降りると、ヤソンはアサガに宿の手配を頼んでガスクをもう片側からしっかりと抱えた。
「すまない」
息苦しいのか、小さな声でガスクが言った。構いませんよ。ニコリと笑って答えると、ヤソンはアサガと共に出てきた宿の主人に人を呼ぶように告げた。
「ですがお客さん、この方は…」
チラリとガスクを見て戸惑うように主人が言うと、ヤソンはにこやかに笑みを浮かべながら言った。
「丁重に扱って下さい。金は迷惑料も含めて前金でお支払いします」
「しかし…ねえ」
「私の身元引受人はプティ市長のスラナング男爵です。必要なら証明書を出しますよ」
「いやいや、結構です。どうぞ」
スラナング男爵の名に驚いて主人が入り口のドアを開けると、ヤソンはふうと息をついてガスクを抱えたまま歩き出した。主人が用意した二つの部屋のうちの一つにガスクを運び込むと、主人に食事を頼んでヤソンはガスクをベッドに下ろした。
「少し冷やした方がいい。アサガ、氷と体を拭く湯をもらってきて下さい。布も」
「はい」
ヤソンの言葉にアサガが部屋を出ていくと、ガスクが皮肉気に笑ってヤソンを見上げた。
「俺たちを仲間にするということは、ずっとこういうやりとりが続くってことだぞ。それでもお前らのリーダーは俺たちを受け入れるかな」
「バカ言わないで下さい。こういうやりとりのない世界を作るために、私たちは戦うんですから。それはあなたが一番、よく分かってるでしょう」
そう言ってヤソンはガスクの服を手際よく脱がせた。バスルームから洗面器とタオルを取って戻ってきたナヴィを見ると、ヤソンはナヴィに向き直った。
「私は宿の手続きをしてきます。ガスクの手当を頼めますか」
「ええ。ありがとう、ヤソン」
ナヴィが言うと、ヤソンは目元に笑みを浮かべて頷いた。ドアが閉まる音が響いて、苦しげに顔を歪めるガスクを見ると、ナヴィはガスクの額の汗を丹念に拭った。
「ガスク、大丈夫?」
「死ぬかも」
「冗談はやめてよ」
怒ったようにナヴィが答えると、ガスクはうっすらと目を開いてわずかに、それでもおかしそうに笑った。その表情を見てホッとすると、ナヴィは黙ったままガスクの胸の包帯を外した。
「薬と包帯ももらってきました。でも、こんなもの慰めにしかならないですよ。医者を呼びましょう」
慌ただしくアサガが部屋に戻ってくると、ナヴィは頼んでもいいのとアサガを見上げて尋ねた。空いていたもう片方のベッドへ薬の入った袋を、そしてガスクの枕元にあった小さなテーブルに湯の入った洗面器を置くと、アサガは答えた。
「しょうがないでしょ。この人に死なれたら、スーバルンゲリラにどんな目に遭わされるか。患者がスーバルン人だってことは言わないでおきますよ」
「ありがとう。ありがとう、アサガ」
ナヴィがアサガの手を握ると、アサガは礼なんてよして下さいよと本気で怒りながらまた部屋を出ていった。何で怒るんだ。戸惑うようにナヴィが言うと、横で聞いていたガスクがだるそうに答えた。
「お前に仕えてる奴だろ。礼なんて言わなくてもお前に従うのが当然だと思ってるんだろ、あいつは」
「でも、僕はもうアサガの主人でも何でもないんだ」
そう答えると、ナヴィは洗面器の湯に布を浸して固く絞った。汗をかいたガスクの体を拭うと、外しかけていた包帯を最後までほどいて、医者が来るならそのままにしておいた方がいいかと思い直してナヴィはガスクの顔を覗き込んだ。
「ガスク、水飲みたい? 何か言って」
目を閉じたガスクは、気を失うように眠り込んでいた。手を伸ばしてガスクの呼吸を確認すると、ナヴィはホッとしてすぐ隣に並んだベッドに腰掛けた。
ガスクを切ったフリレーテに対する憎しみの感情は、旅の途中でも吹き出しそうなほど胸を渦巻いていた。
けれど。眠っているガスクの顔を見ると、ナヴィは目を伏せて手を伸ばし、ガスクの大きな手を握りしめた。フリレーテはあの後、何か言っていた。
僕に流れるオルスナの血、それが絶えるまで何度でも僕の前に現れると。
そんなこと…不可能じゃないか。
第一、オルスナ人を恨んでいるなら、出会うオルスナ人全てを殺して歩かなきゃいけなくなる。
何度考えても、フリレーテと会ったことはなかった。母と妻を殺されるほど恨まれるようなことも、した覚えはなかった。自分の政敵と言えるほど政治的に重要な位置にいた訳でもない。それなら、なぜ。
「ナヴィ、私とアサガは隣に泊まります。食事は部屋に運んでもらうように頼みましたから」
慌ただしく部屋に入ってきたヤソンに思考を中断され、ナヴィが立ち上がると、ヤソンはナヴィとガスクの荷物を運び込む使用人に指示をしてから話を続けた。
「ガスクも私やアサガに看病されるより、慣れたナヴィと一緒にいる方が楽でしょう。彼の具合によっては、何日か滞在しなければいけないかもしれません。しっかり見てあげて下さい」
「はい、あの…」
「何です?」
また部屋を出ていこうとしたヤソンを見て、ナヴィが声をかけた。ヤソンが振り向くと、ナヴィは言葉を選んで尋ねた。
「なぜ僕達にここまでよくしてくれるんですか?」
「今のうちに恩を売っておいて、後で返せなんていうつもりはありませんよ。今は組織を離れて私個人で行動しているんですから。安心して下さい」
そう言って、ヤソンは部屋を出ていった。本当…かな? ほんの少しだけ息をついて閉まったドアを見ると、今度はガスクのベッドの端に腰掛けてナヴィはガスクの額を手で触れた。
力の抜けたガスクの姿を見ると、どこか不安を覚えて恐かった。ガスクがナヴィを庇って倒れた瞬間は、ナヴィの目に強く焼きついていた。
ガスク、ガスク。
何度も呼びたいのを我慢して、ナヴィは身を屈めて傷に触らないよう気をつけながら、ガスクの頭に自分の頭を押しつけた。
ガスクがいなくなったら、僕は。
「!」
ふいに頭に腕が触れて、ナヴィが驚いて目を開くと、ガスクがナヴィを見ていた。黙ったままナヴィの頭をなでるガスクを見ると、何だかおかしくなってナヴィは笑った。
「何だよ」
力なくナヴィの髪に触れガスクが不機嫌そうに言うと、ナヴィは笑みを浮かべたまま首を横に振った。何でもないんだ。何でもないんだよ。そう繰り返すと、ナヴィは自分の頭に触れたガスクの手の上から自分の手を重ねた。
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