アストラウル戦記

「騒がしくてすみません」
 まだ胸が盛大に鼓動を打っていた。黙ったままヤソンが水差しを取り上げるのを見ていたナヴィは、ふいに取り繕うように口を開いた。隣からアサガの声がわずかに響いて、まだガスクと話しているのかと考えてナヴィはまた赤くなった。
 ガスクの体は少し熱っぽかった。大きな体のそばで眠ると安心できた。アサガが考えているようなことじゃないのに。自分でも気づかないうちにため息をついていて、そんなナヴィの様子を横目で見てヤソンがおかしそうに笑った。
「あなたたち、本当に面白いですね。私が言った小姓という言葉も、当たらずとも遠からずといった所だったのかな」
「違いますよ。僕は…ガスクのことそんな風には」
 目を伏せてボソボソと呟くと、ナヴィはそわそわと落ち着かずに自分の手首をもう片方の手でつかんだ。ずっと一緒にいるから、兄弟みたいな…そう、どこか兄を思うような気持ちになっているだけだ。パンネルは僕を息子にしたいと言ってくれた。だから、ガスクのことも家族だと思ってるだけだ。
「それに、何度も助けてもらっているし」
「弾幕が厚いな」
「え?」
 ナヴィが顔を上げると、ヤソンは真顔で持っていた水差しをナヴィに差し出した。その時、隣室のドアがバタンと大きな音を立て、ヤソンはアサガかなと呟いた。
「追いかけた方がいいんじゃないですか? 四人しかいないのにその内の二人に仲たがいされては、楽しい旅が台無しだ」
 ナヴィが受け取ろうとしていた水差しを取り上げると、ヤソンはそう言って廊下の方へ視線を向けた。水、お願いしてもいいですか。ナヴィが言うと、ヤソンは頷いて行ってらっしゃいと答えた。
 ナヴィが廊下へ出ると、すでにアサガの姿はそこにはなかった。どこへ行くつもりだろう。考えながらナヴィが階段を降りると、正面玄関からアサガが外へ出ていくのが見えた。
「アサガ!」
 ナヴィがアサガを追いかけると、アサガは往来に出てから振り向いてナヴィを見た。遠目にも不機嫌そうな表情なのが分かって、ナヴィが近づくのに躊躇していると、アサガはツカツカと戻ってナヴィの手首をつかんだ。
「そんな道の真ん中でボーッと立っていたら危ないですよ」
「アサガ…」
 アサガに引っ張られて、ナヴィは宿の脇に置いてあった古いベンチのそばへ移動した。プティへ続く道はアストラウル人が多く、二人が立っていてもそれほど違和感はなかった。どこに行くの。沈黙に耐えかねてナヴィがベンチに座りながら尋ねると、アサガは別にと答えた。
「ガスクのことは僕が見なくても、大丈夫でしょ。あなたがいれば」
「何拗ねてるんだよ」
「拗ねてませんよ。何で僕が」
「僕は謝らないからね。悪いことは何もしてない」
 道を行き交う旅人たちの様子を眺めながらナヴィが言うと、アサガはナヴィの隣にドサリと腰を下ろした。足を抱えて膝の上に顎を乗せ、眼帯に覆われていない右目でナヴィと同じように往来を見る。
 分かってる。
 これは嫉妬だ。
 僕はどうして、ガスクと同じようにこの人と対等な関係になれないんだろう。今さらそんなことを考えている。王宮にいる頃はよかった。エウリルさまと結ばれるのは僕の手の届かないような身分高い貴族の娘で、僕はエウリルさまをお守りすることだけを考えていればよかった。
 でも、今は。無意識にふうと息を吐くと、アサガはナヴィを見た。
 恐い。僕が選ばれる可能性のあるこの状況が、たまらなく恐いんだ。
 選ばれる可能性があるということは、選ばれない可能性もあるということだから。
「分かってます。あなた奥手だから」
 アサガが言うと、ナヴィは焦ったように奥手って何だよと答えた。分かってるんですよ。ナヴィの言葉には返事せずに呟くと、アサガはまた息をついた。

(c)渡辺キリ