アストラウル戦記

 ガスク。
 ガスク、待って。
「!」
 目を開いて起き上がろうとすると、背中に激痛が走った。脇道へ入って随分行った所にあった宿に担ぎ込まれた所までは覚えていた。ナヴィが身を起こせないまま部屋を見ると、ベッドの横に置いた椅子の背にもたれてガスクが眠っていた。
「ガスク」
 その寝顔にホッとして、ナヴィはそろそろと体を起こした。強く打った背中は痛んだけれど、我慢できないほどではなかった。窓の外は明るくて、朝か昼だろうかとナヴィが考えていると、ふいにガスクが目を覚ました。
 ガスクの体は、よく見ると新しい傷が増えていた。あの時の怪我だろうか。落馬した時の戦闘を思い出しながらナヴィが黙っていると、ガスクはナヴィが見ていることに気づいて目をこすった。
「起きたのか。飯食うか」
「お腹は空いてない…」
「食える時に食っとけ。もう冷めてるけどな」
 そう言って枕元にあった食事を乗せた小さなトレイを取り上げると、ガスクはそれをナヴィに渡した。食事が終わるまで二人とも無言で、ヤソンとアサガはどこへ行ったんだろうと考えながらナヴィは食べ物を口の中へ押し込んだ。
 味がしない。
 まるで布でも噛んでいるような気がして。
 背中の痛みがなければ、夢かと思う所だ。
「よし、食ったな」
 空になった器を重ねてトレイを後ろのベッドへ置いているガスクを、ナヴィは黙ったまま見つめた。でも、あれは夢なんかじゃない。確かにガスクは僕に向かって切っ先を突きつけた。
 僕が王子だと、知って。
「エウリル」
 振り向いてナヴィを見ると、ガスクが呟いた。息が止まりそうなほど苦しかった。ナヴィがギュッと毛布をつかむと、ガスクはナヴィをジッと見つめて尋ねた。
「助かるために俺たちを利用したのか。パンネルを、みんなを」
「…そんな、そんなことない!」
「騙していたのか。本当は分かっていて、忘れたふりを」
「それは…違うとは言い切れないけど、でも、騙すつもりなんかなかったんだ」
 …って! 力を入れると背中が痛んで、ナヴィは身を屈めた。ガスクが黙ったままナヴィをベッドに寝かせようとすると、ナヴィはガスクの腕にしがみついた。
「本当のことを、僕が王子だって言うとみんな僕を憎むんじゃないかと思って恐かった。ガスクだって、僕を許さないかもしれないって。また一人になるのが恐かったんだ!」
「分かった、もう分かったから」
 ガスクがナヴィをベッドに押さえ込むと、ナヴィはガスクの腕を両腕で抱きかかえたままそこに力を込めた。目をギュッと閉じて、涙を目尻に滲ませながらナヴィは言葉を続けた。
「恐かったんだ、ガスクが行ってしまうのが。ガスクに嫌われたくなかった、憎まれたくなかったんだよ」
「ナヴィ」
 片腕をナヴィにしがみつかれたまま、ガスクは覆いかぶさるようにナヴィをもう片方の腕で抱きしめた。強く。
 しばらくそうしていると呼吸を感じて、身動きもできずに静かに互いの気配を伺った。さっきまで放り出されそうな恐怖を感じていたのに、ガスクの体温で少し落ち着きを取り戻していた。身を起こしてナヴィの涙だらけの顔を見ると、しばらく黙り込んでいたガスクは目を伏せて口を開いた。
「俺は…エウリルなんて奴は知らない。一度も会ったことがないし、見たこともない」
「…?」
「でも、ナヴィのことはよく知ってる。男のくせにすぐ泣いて、我侭でバカでお人好しで」
 ナヴィの顔の涙を自分の手で拭うと、もう一度ギュッとナヴィを抱いてガスクは手を離した。感情を吐き出したせいかポカンとした表情でガスクを見上げると、力が抜けて、つかんでいたガスクの腕から離れてナヴィの手がパタリとベッドに落ちた。
「本当に、バカな奴」
「バカって二回言ったな」
 また涙がスッとこめかみを伝って落ちた。ナヴィが大きな目でガスクを見上げた。だるい腕を伸ばしてその首筋に回すと、ナヴィはガスクを抱きしめた。少しずつ緊張が解けて、柔らかく、それから何度も力を込めて。
 目の前にあるナヴィの顔を覗き込んで、ガスクはそっとナヴィに口づけた。初めは何が起こったのか分からなかった。軽く触れるか触れないかというぐらいの淡い口づけの後、ガスクはナヴィの頭に自分のこめかみを押しつけた。
「ガスク、今の」
「うるせえ。ちょっと黙ってろ」
 すぐそばにあるガスクの匂いに目眩がして、天井を見上げて呆然としていたナヴィは見る見るうちに耳まで真っ赤になった。栗色の髪を愛おしそうになでてから、首筋に回されたナヴィの手をつかんで離させると、自分の指をナヴィの指に絡めてガスクはそれをキュッと握った。
 エウリルでもナヴィでも、この手は同じ。声も目も、笑顔も同じ。
「ガスク、ナヴィの様子はどう…」
 ふいにバタンとドアが開いて、髪がくしゃくしゃのままベッドに寝転んだナヴィと、椅子を飛び越えて隣のベッドに転がったガスクが真っ赤な顔でヤソンを見た。邪魔したのかな、ひょっとして。手に持っていた薬をナヴィの枕元に置きながらヤソンが言うと、ナヴィは黙ったままふるふると首を横に振った。

(c)渡辺キリ